東京オペラシティに移転──[1997年9月]
5億円まで膨らんだ借金の大半はまだ残っていたものの、資本増強によって資金繰り地獄から解放された僕たちは、1997年に初台の高層ビル、東京オペラシティにオフィスを移転した。同じ時期に、日本IBM時代に僕を育ててくれた上司やその友人など、ビジネス経験の豊かな管理職が加わり、新生フレックスファームは30名を超える陣容となった。
ビジネスも順調に伸びていた。電子Q便やインターFAXなどの新製品に加えて、僕たちの強みでもあった音声応答システムによる「テレフォン・キャンペーン」が、広告業界を中心に広がりを見せていた。
「テレフォン・キャンペーン」とは、商品パッケージや広告に電話番号を掲載し、エンドユーザーがそこに電話するとプッシュボタンで簡単なゲームなどができるキャンペーンのことだ。それによってクライアント企業は顧客とのつながりを深め、さらに音声メッセージも伝えることができる。今で言う「続きはウェブで」の電話バージョンだ。
このキャンペーンは大手広告代理店を通じ、複数クライアントにサービスとして提供することが多く、大規模な電話回線を持つ回線センターが必要だった。オペラシティに移転したのは、400回線もの電話回線を引き込めるという設備キャパシティが魅力だったからだ。
主な顧客は自動車メーカー、ラジオ放送局、通信会社など多岐にわたっていた。企業への導入が進んだのは、安い給与で必死にテレアポしてくれた馬場くんや保坂くんたち営業社員の努力の賜物だ。
もう一つの柱として、ソフトウェア受託開発や派遣事業も開始した。日本IBM系や日立系の開発子会社との関係を深め、企業内システムであるグループウェアの受託開発を受注した。豊富なバーチャルスタッフに加えて、タケの人脈で中国へのアウトソーシングも開始し、開発コストの削減に努めた。案件によっては大きな赤字を出すなど、システム受託開発特有の課題はあったものの、こちらの事業も総じて堅調に推移した。
電話サービス事業と受託開発事業の二本柱によって、僕たちはようやくビジネス系事業だけで商売できるようになった。アダルト系事業から完全に足を洗い、ビジネス系事業で独り立ちするのは、フレックスファーム創業以来の僕と福田の悲願だった。IBMや日立製作所に勤めていた時には当たり前だった一般企業との取引が、こんなにもありがたいことなのか。独立してみないとわからないことだった。後ろめたい思いもなく、家族や親戚に仕事の内容をきちんと話せる日が来たのだ。そんな仕事をついに勝ち取ったことは、僕たちにとって大いなる誇りだった。(つづく)
(第18回は1月27日公開予定です)
斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数