盟友・福田との別れ──[1999年3月]

 フレックスファームの事業譲渡の話も佳境に入り、先方から最終条件が提示された。

 受託開発や人材派遣にかかる事業に必要なすべてを移管すること、そのなかにはバーチャルスタッフのデータベースや運用システム、さらに荻野と福田の経営陣、営業チームの新会社への移籍も含まれていた。何年ものあいだ、地を這うような艱難辛苦をともにした福田とも、ついに別れる日がやってきたのだ。

 僕たちは、東京オペラシティにある行きつけの居酒屋で、最後の一献を交わした。

「今回は、荻野さんの活躍に救われたなあ」

 福田が安堵の表情でビールを飲み干すと、僕もそれに続いた。

「まったくだな。それだけじゃなく、経営者として大いに学ばせてもらったよ」

 29歳で踏み出した起業人生は、修羅場の連続だった。未熟すぎた僕には、得がたい学びの機会となった。目の前で起きたすべてを、スポンジが水を吸うように、ことごとく吸収してきた。それだけ真剣勝負だったのだ。

 岩郷氏の野獣のごとき直感や胆力、そして荻野のビジネス・プロフェッショナルとしての見識や交渉術。前者は弱肉強食が支配するサバンナのなかで、後者は権謀術数が渦巻く大組織のなかで、それぞれ磨かれた匠の技だろう。そのいずれもが、若くして独立した僕には欠けていたものだった。

「驚いたよな、荻野さんの粘り腰には。ふだんはボーっとして朴訥な感じもするけど、いざ交渉になるとすごい迫力だった。きっと経営陣や労働組合との長年の交渉で磨かれたものなんだろう。彼が労務部長まで務めた名門繊維メーカーの社内抗争は、城山三郎の経済小説にもなったぐらいだからな」

「オーナーもその手腕に惚れ込んでいたよ。彼に社長になってほしいと嘆願していたからね」

 新会社では、荻野が社長に就任することが内定していた。

「荻野さんがいなかったら、倒産してたよな。きっと」

「ああ、そう思うよ。いくら感謝してもし切れないな」

「おかげさまで、若菜の実家から借りた2000万円も返済することができた。心配かけたけど、若菜も安心していたよ。言葉にできないほどありがたい。これも荻野さんのおかげだな」

「本当にありがたかった」

 福田が短く答えると、それからしばらくゆったりと、二人で苦難の道のりを回想した。生きた心地のしない数ヵ月間を経て、僕たちは今日に辿り着いたのだ。

「苦しかったよな。実際」

「きつかった。頭を下げて、怒鳴られて」

 僕が金融機関との交渉を担当していた頃、福田は黙々と難儀な顧客対応や取引先対応をこなしていた。言葉にできないようなつらい経験も数多くしたはずだ。どんなに理不尽な内容にも誠意で応じる福田がいたからこそ、フレックスファームは生き延びたのだ。

「いろいろあったけど、心が平穏でいられること。それが何よりだな」

「まったくだな」

 何度となく押し寄せた経営危機の体験は、二人の価値観を大きく変えた。今、自分たちがここにいて平穏無事に暮らせる、そのことに感謝したい。僕たちの思いは同じだった。

「もう、六年たつんだな。日立を辞めてから」

 僕がつぶやくと、福田が感慨深そうにうなずいた。フレックスファームに入ってからの6年あまりの歳月。僕たちが歩んできた道のりは、言いようもないほど濃いものだった。

 プロレス道場で歓喜した旧友たちの笑顔。不吉な内容証明郵便や大家の激しい怒り。岩郷氏と紛糾を重ねた苦難の週末。新製品が新聞の一面を飾った日の興奮。ベンチャーキャピタルの出資にわいた会議室。イケテルを立ち上げた奇跡の1ヵ月。そして倒産を覚悟したオペラシティでの会話……。

 何もかもが昨日のことのように甦り、走馬灯のように消えていった。あまりにも濃密な6年間だった。これが起業のリアリティなのだろう。良いも悪いもない。ただ、どうしようもなく濃いだけだ。

 最後に僕は彼に言った。

「福田、これからどうする?新会社で荻野さんとがんばるか?」

「ああ、そうするわ。がんばってみるよ」

 そして、僕たち二人は、それぞれ別の道を歩みはじめた。

盟友・福田との別れ【『再起動 リブート』試読版第21回】

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数