95年の阪神淡路大震災発生からしばらく経ったある夜、私は当時の村山富市首相に公邸へ呼ばれた。

 首相公邸の会議室に入っていくと、村山首相は頭を抱えて座っていて私に気づかないでいる。ようやく気がつくと頭を上げ、「5000人もの犠牲者を出してしまった」と私に言った。結局、犠牲者は6000人台に達するのだが、その時点ではそこまでに至っていなかった。

 私の頭のどこかに基本的には“天災”という認識があったので、村山首相のすべてが自分の責任であるような「申し訳ない」という言葉には驚いた。そのときの村山首相は目を赤くしているようにも見えた。

 当時、大震災への初動の遅れなどに一部から厳しい批判もあったが、首相はその批判を一身に浴びて決して責任を転嫁することもなかった。

政府・与党が一丸となり立ち向かった
阪神淡路大震災への対応

 今ふり返ると、あの時少なくとも政府・与党は激しい議論はあっても一糸乱れず、それこそ打って一丸となってこの大震災に立ち向かった。

 首相と河野洋平自民党総裁(外相)と武村正義新党さきがけ代表(蔵相)の結束は固く、文字通り一枚岩であった。自民党の野中広務、亀井静香両氏などのうるさ型も、大の村山ファンで強力に後押ししたし、社会党内で首相と肝胆相照らす仲であった野坂浩賢氏は建設大臣として入閣し、捨て身で難局にある首相を守り抜いていた。

 官邸は特に、石原信雄官房副長官と、園田博之副長官(当時さきがけ、現在たちあがれ日本幹事長)が首相の手足となって大震災に対応した。とりわけ園田氏は首相の信任が厚く、並みの閣僚では足下にも及ばない働きをしていた。

 そして、自民党の小里貞利氏を直ちに震災担当大臣に任命。小里氏は優れた判断力と持ち前の行動力で震災対策の陣頭に立った。この小里担当相に対して、村山首相は、思い切って人事と予算を含めたほぼ全権を任せたのである。