そのような時代がすぐそこに来ているのに、個人の仕事のやり方を見直して生産性を高めようなどという議論はほとんど無駄だ。キレイな字でビジネスレターを書くスキルが、ワープロの登場で意味がなくなり、インターネットの登場でさらに意味がなくなったように、デスクワークの処理能力がほとんど意味をなさない時代がすぐにやってくる。前回記事で「生産性は個人の能力の問題ではなく、システムの問題だ」とお伝えしたが、その真の意味はこのことなのだ。

 人間はどれだけ修練を積んで優秀な寿司職人になっても、1時間に4300貫の寿司は握れない。頑張っても200貫程度で、機械には勝てない。だから寿司店が生産性を上げるには、寿司ロボットを導入するか、客単価数万円の高級店にするしかない。つまり、機械に頼るか、人間にしかできないことをやって高い金を取るかのどちらかだ。

 AI時代には、これと同じようなことがあらゆる業種で起きる。しかも、寿司ロボットに労働基準法が適用されないのと同じく、AIには三六協定など関係なしだ。24時間365日働かせても、労基局が踏み込んでくることもない。そして間違いなく、無駄な書類仕事といった残業の元凶はなくなる。なので、社員の残業をどうすれば減らせるかに頭と時間を使うより、AI時代の仕事の仕組みはどうあるべきかを考えるべきなのだ。そのほうがよっぽど、生産性の高い議論になる。

 またAI時代になれば、それに対応できた企業は、社員一人ひとりの生産性は跳ね上がる。しかしその結果、人も余る。AI時代に生き残れる人間とそうでない人間の格差は、いま以上に拡がり、大きな社会問題になるだろう。その問題にどう立ち向かうかは、企業だけでなく社会セクターにとっても大きな課題だし、社会的な生産性を高めるためにも必要な議論となる。格差問題に取り組んでいるNPOは、自分たちに降りかかるその問題に、いまから備えておくべきだといえる。

 AI革命に対しては悲観的な論説も多いし、危機感を煽る議論も多い。しかし、テクノロジー革命というものは、抗おうとしても無駄だ。抗えば社会の進化に取り残されるだけだし、それはつまり生産性が下がり、貧しくなるだけである。田舎に引っ込んで昔ながらのライフスタイル選ぶという方法もあるが、それで個人は生き残れるかもしれないが、社会はそれではもたない。

 しかし希望もある。オリジナルというものは、なにも「知的エリートだけが生み出せるものではない」ということだ。高学歴だろうが低学歴だろうが、オリジナルを生み出すチャンスはあるし、その能力に学歴格差はない。たとえば、ギャル語のような新しい文体は、東大やオックスブリッジの大学院を卒業した知的エリートが生み出せるものではない。いわば、オリジナルを生み出す能力とは、平等性の高い能力だといえるのだ。また、いくらコミュニケーションロボットが進化したとしても、人間のコミュニケーションに対する需要がまったくなくなるとも考えにくい。そして、知的生産性の高い人たちは、高品質なコミュニケーションサービスを求める傾向にある。つまり、そこに人間が提供するサービスの需要が高まる可能性もある。

 オリジナルを生み出せるか、高度なコミュニケーションサービスを提供できるか――。AI時代の生産性とはそういうことであり、働き方改革もその文脈で議論すべきなのだろう。