イラスト/びごーじょうじ ※享年(数え年で表示)

 天下分け目の合戦として知られる関ケ原の戦い。総大将徳川家康率いる東軍と、豊臣方、毛利輝元を総大将に据え石田三成を中心とした西軍の合戦は、小早川秀秋らの裏切りもあって、東軍の勝利に終わった。

 ところで、関ケ原本戦で破れた西軍の大名で最も遅くに没したのは誰だろうか。調べてみると意外な人物だった。備前国を治めていた宇喜多秀家である。秀家は豊臣秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫を妻にした豊臣家の重臣。関ケ原の戦いには、西軍最大の兵力を率い、参戦している。

 西軍が壊滅した後、薩摩に身を潜めるが、結局幕府に出頭。死罪は免れたが、八丈島への流罪に処され、秀家は、かの地で50年を過ごした。亡くなった時、将軍は4代目、徳川家綱に代わっていた。

 秀家の墓は今でも八丈島(東京都)に残っている。八丈島観光協会によると、妻の実家である前田家からの援助もあったが「生活は楽なものではなかった。日々の暮らしも、磯辺に釣り糸を垂れ、詩歌をたまさか詠むのみで、その他は一切等閑に付し、全くの凡俗に徹して、英俊の片鱗も見せることなく終わった」そうだ。当時の八丈島は江戸時代中期にサツマイモが持ち込まれるまで、飢饉が頻発していた辺鄙な島だ。そこでこれだけ長生きできたのだから、なにか秘密があるに違いない。