本郷から駒込を抜けて西ヶ原、王子へ至る本郷通り沿いの一角は、古くからの「お屋敷街」の性格をいまだに残している。江戸時代には、将軍家の一族が日光に詣でる道すじで、明治時代には時の元勲や実業家に愛された。時代を経過して築かれた別格のステイタスはいまもゆるがない。住むことへの憧憬を内に封じこめて、いまもこの街はひっそりと息づいている。

 東京大学を右手にみながら北上していくと、本郷通りの閑静な住宅地をいくつも経由していくことになる。文京区本駒込、豊島区駒込、北区西ヶ原・滝野川と3つの区にまたがる通り沿いの一帯は、古くから名の知られたお屋敷街である。いまでこそ高級住宅地のイメージリーダーは城西地区に移っているものの、ステイタスを維持している期間はこちらのほうが格段に長い。東京を代表する住宅地の1つとしての評価は、いまだにゆるぎない。

震災前からの高級住宅地

 住宅地としてこの一帯が注目されたのは、明治の元勲や実業家たちが、緑豊かなこの一帯に邸宅や別邸をこぞって建てたからである。現在それらの広壮な住宅地は、一部は開放され、また一部は保存されて歴史を証言している。

 緑豊かなわりには交通の便が良かったことも、この場所が好まれた理由だろう。本郷通りは別名岩槻街道、そして日光御成道とも呼ばれていた。将軍家が日光東照宮に参拝する道はここと決まっていたのである。いまでも西ヶ原には日本橋から二里目であることを示す一里塚が残っている。東京の中心地から一本道の街道筋は、郊外の中でも抜群の立地である。

 こうして本郷通り沿いの住宅地は、明治時代にすでに住宅地として名を成した。田園調布や東京西郊の高級住宅地のいくつかとは違って、関東大震災の前に街の骨格はできあがっていたのである。

 現在このあたりを歩いてみると、街の風情がこのように残ったままなのが意外なほどである。お屋敷と呼ぶのがふさわしい住宅、もとは個人が所有していた庭園などが、いまは所有者こそ変わったのだが、そこにある。明治から大正・昭和にかけての古き良き東京のエッセンスが時を経過したいまも、街の風格を守っているのである。

緑のルーツは「園芸のまち」

 現在の街がつくられた明治より、はるかに時代をさかのぼってみても、この一帯の地名は歴史に多く登場する。「駒込」は日本武尊が命名者との説があるぐらいで、そのルーツは日本の歴史の原点にまでさかのぼることができる。