一度手にした「火中の栗」を手放してはならない
しかし、思うようにいきませんでした。
シンガポールの当時の首相、リー・クアン・ユー氏が本当に実力のある政治家だったからです。彼が諸外国と粘り強く交渉して、特恵関税をなかなか手放さなかったのです。その間、私たちはとてつもない赤字を垂れ流しました。1日100万円の赤字。年間約3億6000万円ですから大きな打撃でした。
しかも、最先端のテクノロジーは日進月歩。5年に一度は新しい製造装置に入れ替える必要があります。テクスケムがその費用を負担するのは不可能。頼みの綱は日本側パートナーでしたが、彼らも当時の円高不況下では、とても出せる状況にはありませんでした。1985年のプラザ合意によって円高が進行し、国内工場を閉鎖せざるを得ない状況に置かれていたからです。それどころか、マレーシアン・サーキットからの撤退を打診してきたのです。
これに抵抗したのが、私とペナン州政府でした。当初、日本企業とテクスケムで7:3の出資比率で事業を進めようとしていましたが、ペナン州政府が「産業政策の一環」として30%の株式を要求。結果、残り70%を日本企業とテクスケムが7:3で所有することにしたのです。
私は、「特恵関税が廃止されるのは時間の問題だから、もう少しの辛抱だ」と日本側パートナーを説得。マレーシア連邦政府も産業政策を完遂するために必須の事業として、日本企業の撤退に強く抵抗をしました。これに理解を示しつつも、日本企業は「背に腹は変えられない」と譲りませんでした。三者の交渉は完全に行き詰まってしまったのです。
そんななか、日本企業の社長に招かれて東京で会食することになりました。その社長は立派な人物で、丁寧に私をもてなしてくれました。そして、実直にこう語ったのです。
「小西さんの立場もわかるし、マレーシア政府やペナン州政府の考え方もよくわかる。しかし、自分は社長としてもうこの事業を継続することができない。国内の事業所も泣く泣く閉めた。勤続20年から30年ぐらいの人がいっぱいいたが、その人たちを全員解雇しなければならなかった。そんな状況で、これ以上赤字の合弁会社を続けていくことは許されない」
社長の抱える事情、心情には深く感じ入るものがありました。そして、真摯な態度で語る姿を見つめながら、私は「合弁解消やむなし」と腹をくくりました。無念でしたが、やむをえないと考えたのです。
問題はペナン州政府です。30%の株式を持っている彼らには拒否権がありますから、私たちの一存で合弁事業の解消を決断できません。そして、彼らは事業撤退に頑強に反対。私は必死になってペナン州政府と交渉を繰り返しましたが、取り付く島もありません。いわば八方塞がり。しかし、一度手にした「火中の栗」を手放してはならない。その瞬間に私の信頼は失われるからです。だから、私はじっと考えを巡らせました。