「後悔」は何も生み出さない
このとき、妙案がひらめきました。
ペナン州政府の全株式を、日本企業に額面で買い取ってもらえばいい。
そう日本企業の社長に打診すると、そばにいた財務担当の常務に「あなたは何をバカなことを言っているんだ」と言われました。紙くず同然の株券に多額のお金を払うのですから、当然の反応だったかもしれません。しかし、しばらく黙っていた社長は、「小西さん、それで行こう」と発言。そして、「当社には、そんな発想ができる人間がいなかった。小西さん、あなたに任せる」と言ってくれたのです。
「ただし、株式を買い取るかわりに、うちから派遣している社員は全部引き上げるから、あとはあなたに全部やってもらう。これでいいか?」
事業撤退となれば、ペナン州政府との問題や従業員の解雇などキナ臭い問題が一気に噴出します。撤退資金の支出と引き換えに、そのリスクからの分離を要求してきたわけです。そこはギブ・アンド・テイクということで応諾しました。
そして、すぐにペナン州政府に赴いて、株式の買い取りを提案。州の首席大臣は、それでも頑強に拒否。「一国の経済政策を何と心得るか!」と激怒しました。これだけ汗をかいてきたのに、その反応かと愕然としました。さすがに私も腹が立って、「だったら、俺はここの社長を辞める。俺が持っている株式は全部くれてやるよ」と捨て台詞を吐いて席を立ちました。この提案以上のアイデアはあり得ない。そう思った私は、最後のカードを切ったのです。
すると、「待て待て!」と押しとどめられました。そして、彼らはこう言いました。
「わかった。じゃ、君が考えたとおりにやればいい。ただし、会社は解散してもいいが、事業は残せ」
こうして、私の思惑どおりの落としどころにおさまったわけです。実際、その直後、州開発公社総支配人は「これで俺のクビもつながったよ」と笑顔を見せていました。投資金額がそのまま返ってくることに安堵したのでしょう。
その後、日本企業の社員は全員引き揚げ、私と私の部下だけが残り、工場閉鎖のXデイを決めて一気に残務処理を行いました。日本側パートナーからの資金提供も受けて、債務はすべて完済。従業員には手厚く補償しました。そして、無事後継企業も見つかり、問題をすべて綺麗に片づけることができたのです。
奇しくも、その翌年、1987年についにシンガポールの特恵関税が廃止。予想どおり、シンガポールからマレーシアへ続々と家電企業が移動してきました。そして、マレーシアン・サーキットの後継企業は莫大な利益を手にしたのです。
私は、それを複雑な気持ちで眺めるほかありませんでした。狙いは正しかったが、運に恵まれなかった。まさか、ここまでリー・クアン・ユー首相ががんばるとは思わなかったですからね。しかし、失敗は失敗と観念するほかありません。
結局、身の程を超えたチャレンジだったということです。最先端テクノロジーを使う事業には莫大な資本力が不可欠。当時の私の資本力を考えれば、手を出してはならない事業だったのです。今のテクスケムは当時の100倍以上の資本力を有していますが、それでも、この事業には手を出さないでしょう。高くつきましたが、これも勉強と割り切るほかありません。後悔しても気が滅入るだけで、何も生み出すことはできません。それより、次のチャンスに目を向けるのが正解なのです。