いまメディアで話題の「マレーシア大富豪」をご存じだろうか? お名前は小西史彦さん。24歳のときに、無一文で日本を飛び出し、一代で、上場企業を含む約50社の一大企業グループを築き上げた人物。マレーシア国王から民間人として最高位の称号「タンスリ」を授けられた、国民的VIPである。このたび、小西さんがこれまでの人生で培ってきた「最強の人生訓」をまとめた書籍『マレーシア大富豪の教え』が刊行された。本連載では、「お金」「仕事」「信頼」「交渉」「人脈」「幸運」など、100%実話に基づく「最強の人生訓」の一部をご紹介する。

チャレンジとピンチは表裏一体である

 絶体絶命の窮地に立たされる――。
 人生にはそんな局面があります。チャレンジとピンチは表裏一体ですから、挑戦的に生きればそれだけピンチに立たされる局面は増えます。特に、リスクの高いチャレンジをすれば、絶体絶命の状況に立たされることもあります。私も何度かそういう経験があります。なかでも苦しかったときのエピソードをお話ししましょう。

 あれは、1980年。日本の旧財閥系化学メーカーと「マレーシアン・サーキット」という合弁会社を設立しました。私がその会社に提案して、マレーシアでプリント配線基板の製造・販売をすることになったのです。プリント配線基板とは電気回路で、テレビ、ビデオ、オーディオ、エアコンなど、あらゆる家電製品に必須の部品。当時の最先端のテクノロジーですから、技術力はもちろん莫大な投資が必要な事業でした。だから、旧財閥系の大企業とパートナーシップを組んだわけです。

 これは、非常に大きな可能性を秘めた事業でした。というのは、当時、世界の先進国からシンガポールに与えられていた特恵関税が廃止されるのが必至だったからです。特恵関税とは、発展途上国に0%かそれに近い低関税を特別に認める国際的なルールで、シンガポール製の家電製品を輸入する場合に関税が大幅に軽減されます。そのため、各国の家電メーカーがこぞってシンガポールに製造拠点を設立して世界中に輸出していたのです。

 しかし、シンガポールの1人あたりの国民所得はどんどん上昇。EUの数ヶ国を超える水準になろうとしていましたから、特恵関税を廃止すべきだという国際世論が高まっていました。しかも、シンガポールは人口が少ないので、国内市場だけではとてもビジネスとして成立しません。だから、いずれシンガポールに拠点を置いていた企業はどこかへ移らざるを得なくなる。そして、移転先は、まだ特恵関税を享受していたマレーシアしかない、と私は考えました。

 家電産業が成立するには、部品を供給する幅広い裾野産業が欠かせませんが、東南アジアのなかで最もビジネスインフラが進んでいたのはマレーシアですから、家電産業がマレーシアに移動すると考えるのが自然だったのです。マレーシア連邦政府もそこに目をつけて、部品産業の誘致をどんどん始めていました。そこで、日本の家電メーカーと取引関係にあった私たちは、難易度の高いプリント配線基板事業への挑戦を決意。そこに「勝てる場所」があると考えたわけです。