世界最強のビジネス「小ざさ」を開業
戦火がひどくなり、稲垣篤子氏は家族とともに父・伊神照男氏の故郷、現在の福岡県八女市に疎開する。
その際に、伊神氏はナルミ屋もたたみ、東京の土地も売り払っている。
そして、戦後もしばらくは、九州で建設業などの仕事を請け負いながら、一家を養っていた。
東京の吉祥寺に戻ったのは、戦後6年も経った1951年になってからだ。
戦後間もなくであれば、闇市などバラック小屋が並ぶ吉祥寺に、商売をする場所を確保するのは、それほど難しいことではなかったかもしれない。
しかし、1951年当時になると、すでに今のダイヤ街のいい場所は、新しいビジネスの萌芽に満たされていた。ナルミ屋を復活させようにも、場所がなかった。
まずは、吉祥寺「小ざさ」は、組立方式の屋台のような形での船出となった。
本来、本格的な営業を許可されている場所ではなかったために、店に立つ稲垣氏が、営業前に屋台を組み上げ、終わってからは片づけて帰っていた。