ホモ・エコノミクス

「経済的な人間(ホモ・エコノミクス)」とは贈与の本質を理解し、贈与と反対給付の往還を円滑に、エンドレスに継続することができる人々のことです。それに尽きると思います。そして、贈与を起動し、継続するために一番必要な資質というのは、「何を見ても、それを自分宛の贈り物ではないかと思ってしまういささか多幸症的な心的傾向」です。最初に沈黙交易を始めた人が「お、こんなところに私宛ての贈り物が置いてある」と思った「贈り物」は動物が運んで来たものかも知れないし、風で飛ばされて来たものかも知れないし、誰かがゴミとして捨てたものかも知れません。でも、それを「贈り物」だと勘違いして、「お返しをせねば」と思った人が起点となって、それから長い期間にわたり、広範囲に及ぶ交易が始まった。交易をキックオフするのは「無主物をうっかり自分宛ての贈り物だと勘違いして、反対給付義務を感じてしまう人」です。こういう人をこそ「ホモ・エコノミクス」と呼ぶべきだろうと私は思います 今、資本主義が末期を迎えていますけれど、その理由は現代のビジネスマンたちが経済活動の本質を理解できなくなり、「ホモ・エコノミクス」ではなくなっていることにあると
私は思います。

 実体経済というのは基本的には人間の生理的欲求を充足するための活動です。衣食住に関わる基本的な欲求があります。それがないと生きてゆけない。だから、それを作り出し、交換する。でも、そういう生身の人間の生理的欲求を基礎にした経済活動には「身体という限界」があります。どれほどがんばっても1日3食以上美食を続けていれば身体を壊します。服だって一時に一着しか着られない。1時間ごとに着替えてもいいけれど、他のことができなくなる。家だって、一晩に眠れるのは一軒だけです。1時間おきに別の家に移動していてもいいけれど、寝不足で死んでしまう。だから、実体経済で回していると、経済活動の規模はある程度以上は拡大しない。

 でも、資本主義経済は無限の右肩上がりを求めます。そうなると、もう人間とは関係のない経済活動を営む他に手立てがない。衣食住にかかわる欲しいものがすべて手に入ると、もう買うものがなくなる。仕方がないので、株を買う、債権を買う、金を買う、石油を買う、ウランを買う……こういうのはすべて貨幣のようなものですから、これは「貨幣で貨幣を買う」ことに等しい。それなら「身体という限界」を突破できる。金融経済というのはそういうものです。もう人間的価値とは何の関係もありません。現に、現代の株の取引は今はコンピューターのアルゴリズムが行なっています。千分の一秒単位で売り買いするというようなことはもう人間にはできません。

眼に映るすべてのことはメッセージ

 経済活動というのは本来「最も固有で、最もオリジナルなもの」が優先的に交換の場に置かれるというものなのですけれど、経済のグローバル化によって、その基本ルールも否定されてしまった。グローバル化というのは、世界中で行き交う財貨サービス情報の価値が共通の度量衡によって計測可能になったということです。すべてのものの価値が数値的に可視化されていて、もうやりとりされているものに何の「謎」もなくなった状態、それがグローバル化の到達点です。交換への情熱が冷めてしまうのも当然です。

 繰り返し申し上げている通り、交換は、価値のわかっているものが交換されるようになった時に停止してしまう。交換というのは理解不能の異物を定期的に取り入れるための仕組みなのです。集団の中に「ランダムなもの」を取り入れることで、集団を活性化するためのしくみなのです。「ランダムさのないところには、新しいものは生まれない」(Without the random, there is no new thing)というのはグレゴリー・ベイトソンの言葉ですけれど、それがすべてのシステムが生き延びるための基本条件なのです。

 でも、グローバル化は「ランダム」を排除して、すべてを規格化・標準化して管理するシステムです。異物は排除され、システムが採用している度量衡ではその価値が考量できないものは「無価値なもの」とされて廃棄される。でも、それが全体化したときにやってくるのはシステムの死です。

 今の日本経済も株式市場は「空前の活況」だと浮かれていますけれど、実体経済は縮小し続けています。「金で金を買う」マネーゲームは賑わっているけれど、それは生身の人間が実感できる豊かさとは何の関係もない次元での出来事です。

 これから先、資本主義経済はどうなるのか。次のフェーズはまだはっきりとは見えていませんけれど、いずれにせよ、「経済活動とは本質的に何のことなのか?」という根源的な問いを回避することはできません。交換の目的は交換の継続です。同語反復のようですけれど、交換を継続するためには、「ホモ・エコノミクス」としての自己形成を果たさなければならない。そして、「ホモ・エコノミクス」に求められる最優先の人間的資質は想像力なんです。何を見ても、「これは私宛ての贈り物ではないか?」と感じることができる想像力です。「眼に映るすべてのことはメッセージ」とかつてユーミンは歌いましたけれど、まさに「眼に映るすべてのこと」が自分宛てのシグナルであり、メッセージであり、贈り物であると「錯認」できる能力こそが人間を「ホモ・エコノミクス」たらしめるものです。

 何を見ても、それを超越的な存在からの贈り物と受け取って、「ああ、ありがたい」と感謝することができる人のことを浄土真宗では「妙好人」と呼びます。市井の、信仰一途な方たちです。何を見ても「ありがたい」と感じる。日が照ればありがたい、雨が降ってもありがたい、風が吹いてもありがたい。これは阿弥陀如来からの贈与だ、お返しせねばならない。この心根が信仰の最も尊いありようであると鈴木大拙は『日本的霊性』で絶賛しておりました。宗教的感受性の根本にあるのはこの被贈与感です。

 英語では、「贈り物」と「才能」は同じ語です(gift)。それは才能というのは天からの贈り物であるから、占有したり、退蔵したりしてはいけないという遂行的なメッセージをすでに言葉そのもののうちに含んでいます。才能を「自分の所有物、自分の財産だから、どう使おうとオレの勝手だ」と思っている人は、長い目で見ると、才能を発揮できないままに終わります。「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」という諺がありますけれど、これはその通りなんです。天賦の才能、天からの贈り物にどれほど恵まれていても、それは「贈り物」なのだから、「お返し」をしないといけないのです。贈与に対して反対給付義務を果たさないと「悪いことが起きる」というのは類的な信憑ですけれど、せっかく才能に恵まれたのに開花せずに終わったというのは、まさにその「悪いこと」なんです。

 どんな分野でも、他人がどれほど努力しても到達できないようなレベルに何の努力もなしに達してしまう人がいます。でも、それを自分宛ての「贈り物」だと思って感謝し、「お返し」に何をしたらいいのか考える人はあまり多くありません。とくにその能力が換金性の高いものである場合には、ほとんどいない。

 勉強がよくできるという人がいますが、それは実は努力の成果ではありません。何でこんなことにみんなが苦労するのかわからないまま、ほいほいできちゃうんです(そうでない場合は「まったく無意味だと思われる作業にも長時間耐えられる才能」に恵まれているのです)。いずれにせよ、それは天からの贈り物です。だから、「お返し」しなくちゃいけない。それは「世のため人のため」にその才能を用いるということです。自己利益のためだけに使ってはいけない(ちょっとくらいはいいけれど)。