果たして「良書」とは何だろうか
ベストセラーを連発する出版社の編集者と話したときに、「とにかく売る努力がすべて」という言葉を聞いたことがあります。「売る努力よりまず内容でしょ」と“正論”めいたことを口にすると、彼は胸を張ってこう言いました。「いくら内容のいい本だって、読んでもらわなければ始まらない。そのためにはまず、目立つことです、売ることです」
しかし、彼があの手この手で売ろうとしている本は、はたしてそれだけの内容を持つものなのでしょうか。これは若干、主観的すぎる意見かもしれませんが、その出版社の本には、たしかに深い内容を持つ力作もあるのですが、一方で言い古された内容を繰り返すだけの自己啓発書もあるように思えました。
ただ、彼はそういった区別なく、とにかくどの本でも手がけたものはツイッターでつぶやき、リツイートを狙い、テレビ番組に仕掛けて取り上げてもらおう、とするのです。「どの本にも愛はある」と言われればそれまでなのですが、「内容がいいからこそ、多くの人に手に取ってもらうために売ろうとしている」という彼の説明は、自分がしようとしていることを正当化しているだけに聞こえました。
もちろん、いくら赤字を出してもいいからむずかしい理論書、教養書を作り続けよ、というわけではありません。ただ、「良い本=売れる本」と尺度が一元化しすぎるあまり、「売れない本=良くない本」という方程式まで正しいと思われるのは、やっぱり違うと思うのです。
「売れないなら、学術論文の世界でやってくれ」と言う声もあるかもしれませんが、学術的な世界よりはもう少し広い人に読んでもらいたい、でも、数万の読者は期待できない、という本もたしかにあるはずです。
「これは高尚な本だ」とふんぞり返って著者や出版社が売る努力を放棄するのはいかにも時代錯誤だとは思いますが、私たちももう一度、「売れないけれど良い本」の存在を認め、そのジャンルが絶滅しないように守る必要はあるのではないでしょうか。それこそが本当の「教養ある態度」というものだと、私は思うのです。