「うつは本当には治らない」「うつは再発しやすいものだ」といった認識が、依然として、あちらこちらでささやかれ、信じられているように見受けられます。これらは、「治る」ということを「元の状態に戻ること」と捉えて行なわれている治療のはらむ現実的な限界を多くの人が見て、流布されるに至った残念な風評です。

 第4回でも触れましたが、repair(修理)ではなくreborn(生まれ直し)あるいはnewborn(新生)といった深い次元での変化こそが、真の「治癒」には欠かせません。この変化を「第2の誕生」と呼ぶことにしましょう。

 最終回の今回は、その「第2の誕生」とはどのようにして可能なのか、そこからどんな生き方が始まっていくのかということについて、触れておきたいと思います。

「自力」と「他力」

 仏教では、よく「自力」と「他力」ということが言われます。「自力」は自分の力を頼みにしている在り方を指し、「他力」は仏の力によって導かれることに開かれた状態を指しています。

 何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図で考えてみると、「自力」とは「頭」の知力や意志力を頼みにしている状態であり、一方の「他力」は、大自然由来の「心」(=「身体」)にゆだねた状態と見ることができます。そう考えてみると、さしずめ「うつ」とは、「自力」が尽きた状態に相当すると言えるでしょう。

 ある日突然に朝起きられなくなる、会社に行こうとして自分に号令をかけても身体が動いてくれない。「うつ」の始まりによく見られるこのような状態は、「頭」が命令しても、もはや「心」(=「身体」)がストライキを起こし従ってくれなくなった状態と理解できます。

 第12回でも触れましたが、「うつ」に陥りやすい人は、この「自力」を頼みにして自らに努力や忍耐を強いてきた場合が多く、それがある時点で破綻してしまったのが「うつ」状態なのです。

 仏教学者の鈴木大拙氏は、「自力」と「他力」について、こんなことを述べています。

 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力は、もうこれ以上にできぬというところに働いてくる。他力は自力を尽くしたところに出てくる。窮すれば通ずるというのもこれである。〈―中略―〉底の底まで進んで破れないというところまで進んで、やがて自力を捨ててしまう、そして捨ててしまったところに、自然に展開してきたところの天地、その天地というものは、やがてまたわれわれの客観界ではないのか知らんと思う。あるいは絶対客観とでもいうべきであろうか。(『禅とは何か』春秋社より)

 さて、ここで述べられている「自力を尽くしたところに他力が働いてくる」ということを、「うつ」について当てはめてみると、どんなことが見えてくるでしょうか。