1926年の年明けからシュンペーターは多忙を極めていた。ボン大学の講義が多いうえに他の大学からの講演依頼もあり、『経済発展の理論』(初版1912年)の改訂作業も始めていたのである。
グスタフ・シュトルパーが主宰する経済週刊誌 Der deutsche Volkswirt(「ドイチェ・エコノミスト」)へ定期的に寄稿し始めたのは1926年2月だった。しかし2月と4月に1本ずつ書いたあと、翌1927年4月まで、1年間で1本しか掲載されていない。この間、シュンペーターの身の上に大きな問題が起きたのである。
シュンペーターを襲った悲劇
相次ぐ母と妻子の死
大事件とは、母と妻子の急死だ。母ヨハンナ・フォン・ケラーは1926年6月22日に心臓血管の障害で死去した。心筋梗塞であろう。65歳だった。シュンペーターは他界する前日にウィーンへ帰り、臨終に立ち会っている。
母1人子1人だった。息子のために貴族の老人と再婚し、貴族階級のギムナジウム、そして天下のウィーン大学へ入学させて、のちに「趣味は乗馬」という高貴な人物に育てた母親である。シュンペーターの嘆きは深かったであろう。
葬儀をすませてボンへもどると、妊娠中の新妻アニーが危機に陥った。もともと妊娠初期から出産の危険性を医師に指摘されていたらしい。
アニーの日記が残されており、ハーバードビジネススクールのマクロウ先生がシュンペーターの評伝(★注1)でかなり引用している。その引用されたアニーの日記を読むと、頻繁に「出血」という文字が出てくる。
母ヨハンナ死去の1か月後、1926年7月23日の日記には「非常にひどい出血」とある。7月25日は「ベッドで出血」と書いている。それでも彼女は出産を強く望んでいた。日記にはボン大学教授シュピートホフ夫妻がたびたび見舞っている様子も出てくる。
アニーの日記は7月30日が最後となった。8月1日に大出血すると病院へ運ばれ、8月3日に出産と同時に産褥で死去した。ベビーは男子で、彼も死亡した。アニーは23歳の若さだった。
1926年6月23日から8月3日までの5週間で、家族(母、妻、子)全員を失くしてしまったのである。短期間に家族を喪失したショックなど、筆者には想像するのも困難だが、シュンペーターへの精神的な打撃は計り知れないほどが大きかったことだろう。情景を思い浮かべただけで涙が出てくる。
悲しみを打ち消すかのように
『経済発展の理論』改訂に没頭
その後、数か月間、シュンペーターはアニーの日記を書き写すことで精神の平衡を得ていたという。また、『経済発展の理論』第2版への改訂作業も精神安定剤になっていただろう。