この場面だけではありません。秋子が「私のような者でも一人ぐらいの子どもなら、普通の人に負けないように立派に育てることができると思います」、道夫が「私たち夫婦は普通の人より、もっともっと一生懸命生きなければならないと思います」などと述べる場面があり、2人が「普通の人たち」と異なることがベースとなっています。

 言い換えると、映画のタイトル通り、名もなく貧しく美しく、そしてたくましく生きている道夫と秋子でさえ、「普通の人」と異なる存在であることを前提に映画が作られているのです。

「障害」をめぐる二つの考え方
社会との関係性で生まれる「社会モデル」

 では、障害者とは「普通の人」ではないのでしょうか。もちろん、聴覚障害者は音声情報にアクセスできないため、聞こえる人よりも不利な面があり、相応の配慮が必要です。

 しかし、こうした有利、あるいは不利な状況が起きるのは、日本語の音声情報に頼っている人が多数を占めているためです。逆に言えば、日本語の音声情報が少ない環境になれば、聞こえる人も聴覚障害者と同じ環境になるのです。

 例えば、皆さんが海外を訪ねたと仮定します。そこで現地の人が交わしている言葉が分からない場合、聴覚障害者と同じ環境に立たされます。そして、文字情報が分からない場合、視覚障害者と同じ環境になります。

 こう考えると、障害が発生するプロセスは2つ有り得ることになります。1つは「耳が聞こえない」「目が見えない」などの側面に着目する考え方。これを専門用語では「医学モデル」と呼びます。もう1つは社会との関係性で障害が起きるとする考え方。これは「社会モデル」と呼ばれています。

 社会モデルを考える上で、2016年公開の『Listen』という映画を紹介します。これは、聴覚障害者の生活を追っている良質なドキュメンタリーですが、聞こえる私には面白く観ることができませんでした。

 なぜかと言うと、映画では音声が流れず、ひたすら字幕だけ。出演者が指でリズムを取りつつ楽しそうに踊っているのですが、手話の知識もリズム感も持ち合わせていない私には面白さを理解できなかったのです。

 しかし、劇場に来ていた聴覚障害者は楽しそうに見ていました。「社会モデル」の考え方に立つと、手話がメインの言語だった当時の劇場で私は少数になり、手話を理解している聴覚障害者は多数だったのです。ここに多数と少数の関係が逆転していたことになります。