つまり、「医学モデル」では障害の原因を固定的に考えますが、環境に着目する「社会モデル」では障害が起きるプロセスは相対的になるので、自らを「健常者」と疑っていない多数の人が少数に、逆に少数が多数になる可能性があるということです。

 そして、日本の障害者福祉制度は、これら二つのモデルを併存させているのですが、「社会モデル」が一般的に理解されているとは言えないし、まだまだ配慮できる点が多いのではないかと感じています。

 例えば、電車のダイヤが乱れた時、行き先の変更や到着予定を放送で伝えてくれますが、電光掲示板でも伝えない限り、聴覚障害の人には何の意味もありません。

 さらに言うと、海外では「電話リレーサービス」という聴覚障害者用の「公衆電話」があります。このシステムでは、聴覚障害の人がモニターの向こうで待機しているオペレーターに手話で情報を伝え、オペレーターは話し相手に音声で情報を伝えることで、コミュニケーションできるようになっています。既に世界15ヵ国程度で導入されていますが、日本ではモデル事業が実施されている程度です。

 これが向こう10年の間に普及すれば、10年後の人が今の映画を観た時、「当時の人は聞こえる人だけに電話を提供していたのか。技術は既に進歩していたのに、何と配慮を欠いていたのか」と思うかもしれません。ちょうど、私が二つの映画のよさだけでなく、不足している点を論じているのと同じ構図です。

 つまり、二つの映画は、半世紀前には画期的だったわけですが、今の価値観から見ると物足りなさを感じるということは、やはり半世紀後の世代から見ると、私たちの社会も「配慮を欠いている」と思われるかもしれないということです。

「多くの人が自らを『健常者』と信じて疑わない中で、まだまだ障害者に配慮できることがあるのではないか」「半世紀後の私たちの社会が、『配慮を欠いていた』と批判される側面は残っていないか」──。

 私たちが生きる現代を相対化し、立ち止まって自問する上で、障害者を取り上げた昔の映画は、いい素材と言えるのではないでしょうか。