まもなく、東日本大震災から1年が過ぎようとしている。あの日から失われた「職」と「食」の安定は、いまだ取り戻せないままだ。

農林水産省のホームページによると、震災関連の被害農地推定面積は2万3600ヘクタール、農林水産関係の被害額は2兆3704億円に上る。福島第一原子力発電所の事故に伴う食品中の放射性物質に対する漠然とした不安は、今も消えない。時間が経つにつれ、西と東の温度差は広がり、被災地から遠く離れた首都圏や北関東の生産者たちにも影響は広がり続けている。

今回は、特別企画としてベテランの漁師と農家に話を伺った。ご登場いただくのは、江戸時代から代々続く東京湾の漁師で船橋市漁業協同組合組合長でもある大野一敏さん(73歳)と、茨城県石岡市で約40年間に渡り有機農業を続けてきた魚住道郎さん(62歳)だ。今なお、”見えない敵”と闘い続ける生産者2人の声に、まずはじっくりと耳を傾けたい。

魚の買い控えに、農園サポーターの減少
原発事故がもたらしたこの1年の変化

 東京都心から電車に揺られること約30分。JR船橋駅で下車し、15分ほど歩いた先に大野一敏さん率いる「大平丸」の事務所がある。

 目の前に見えるのは東京湾。スズキの水揚げ日本一で知られる湾内では、ほかにもイワシやサバ、サンマ、アジ、カレイ、スズキなど季節ごとの魚が獲れるほか、アサリやホンビノス貝などの採貝漁業も盛んだ。ちょうど漁のオフシーズンで、乗組員たちは寒空の中、船のメンテナンス作業をしていた。

 茨城県から長男の昌孝さんが運転する車に乗ってやってきた魚住道郎さんは、大野さんとは初対面。あいさつを交わすなり、年上の大野さんが「そっちは農家なのに魚住で、こっちは漁師なのにビック・フィールドかい」と軽く冗談を飛ばす。

大野一敏(おおの・かずとし)/船橋市漁業協同組合代表理事組合長、株式会社「大平丸」社長。1939年(昭和14年)、江戸時代から続く網元の長男として千葉県に生まれる。父親は、「内湾一の魚とり」と謳われた漁師。その父と共に10歳の頃から船に乗り、高校卒業と同時に巻網漁の漁師に。1976年から漁労長として船団を指揮、1985年、船橋市漁業協同組合の組合長。漁師の立場から、一貫して東京湾の埋め立てには反対の立場をとってきた。現在は、漁労長を息子に譲り、サンフランシスコのベイプランを参考に観光業と組み合わせた漁業の活性化と生き残りのための活動を続けている。船橋市漁業協同組合全体の平成22年度の漁獲量は約266万7000キログラム、漁獲高は約6億7000万円。

 農林水産業とひとくくりにされながらも、漁師と農家がこうして同じ席で話す機会はめったにない。

――今回は、東日本大震災から1年ということでお2人に揃っていただきました。大野さんは千葉県、魚住さんは茨城県と、お2人とも今回の東日本大震災では直接的に大きな被害を受けなかった地域の生産者ですが、まずはこの1年、どのような出来事があったのか、から教えていただけますか。

大野 ここ(船橋)はもう、すぐに原発事故の影響を受けました。というのも、事故があった3月、東京都葛飾区にある金町浄水場からヨウ素が検出された。その配水地区が千葉県の「市川・船橋」と新聞に出たものだから、「船橋は汚染されている」と大騒ぎになった。

 船橋は、日本で一番スズキが獲れる。その半分は、流通にのって名古屋や岐阜などの中部地方へ運ばれて行きます。ですから、最初に何が起きたかと言えば、名古屋地区の大手スーパーが協定を結んでスズキの買い控えを始めた。その上、食物連鎖で「いかなご」などを食べるスズキに放射性物質が蓄積されるという記事が女性週刊誌等に出たものだから、消費者はますます魚を買わなくなった。もちろん、すぐに検査してもらいましたが、その時点では放射性物質は出ませんでした。