当時は、ドイツを中心とした「研究第一の医学」が他国の医学を圧倒していたが、高木は「貧しい病人のための病院で働く医者を育てることが重要である」とする英国式の「臨床医学」を学んだ。

 貧富の別なく病人を診る。研究室ではなく、臨床医として病人と向き合う。高木は終生、この2つの姿勢を貫いた。

 優秀な成績を得て帰国し、東京慈恵会医科大学付属病院の前身である有志共立東京病院を設立し、「病気を診ずして、病人を診よ」の精神に基づく医療に生涯を捧げた。「病気を診ずして~」というのは、病気を診るのは当たり前で、医者はさらに、その人の生活や生い立ちなどの背景までを網羅的に診るべし、という意味。

 脚気の原因として、食事と栄養を疑った人物ならではの言葉だ。

伊藤博文の後押しで
航海実験が実現

 日英の食事を比較した高木が着目したのは、英国人が、日本人よりはるかに多くのタンパク質(パン、肉)をとっていることだった(※イギリスで使われていた小麦は北米産の高タンパクな小麦だった)。実際、日本の艦船、兵営、学校を視察すると、山盛りの「銀シャリ」と塩辛い「たくあん」が供されていた。「白米のような炭水化物を多くとりすぎ、タンパク質が不足するためにおこる病気である。すなわち食事の栄養欠陥から脚気がおこる」と仮説を立て、「兵食改善」による脚気の予防航海実験でそれを実証しようと考えた。

 海軍食を、パン、肉類を取り入れた食事内容に改善しようとしたのである。しかし当時、脚気は細菌による感染症であるという説が有力で、原因が食事にあるとは誰も考えていなかったため、取り組みは難航を極めた。

 風向きを変えたのは明治16年(1883年)、南米に練習航海に出た軍艦「龍驤(りゅうじょう)」が乗組員376名のうち169名の重症脚気患者を出し、そのうち25名が死亡という痛ましい惨事だった。帰途、ホノルル港で野菜や肉を調達して提供すると、患者はなんと全員回復。その報告に確信を得た高木は、伊藤博文に嘆願。明治天皇への拝謁を許され、ようやく航海実験が実現した。