その後、国の方針として中国からの留学ビザが緩和され、日中双方に多くの受け入れ団体と送り出し団体が設立された。そして計画表明から数年たった1986〜87年頃から、突如大量の中国人留学生が押し寄せるようになったのである。しかし、留学生といっても名ばかりで、この頃来日した中国人の多くは20代後半から30代前半の、中国ではすでに社会人となっていた青年層だった。89年に来日し、現在は永住権を持つ上海出身の実業家は言う。

 「皆、口には出さないけど、あの頃来日した留学生の大半はカネ目的です。本気で勉強しようと思って来日した人間なんて、1パーセントもいなかったんじゃないかな。そのための手段が留学だった。親戚中から借金して資金を集め、私費留学生として来日する人間がほとんどだった」

 日本はバブルの真っ只中。札束がうなるように乱れ飛んでいた時代である。一方の中国は改革開放路線を走りはじめたとはいえ、経済規模は日本の数十分の一。巨大な最貧国の一つだった。“黄金の国リーベン(日本)”を目指して、多くの“エセ留学生”が押し寄せたのも当然の成り行きだった。

 謝鳴もそんな中国人留学生の一人として88年に来日。しかし、他の中国人留学生に比べると、かなり異質な存在だった。上海出身の彼女は、当時の中国ですでにアルバムを100万枚売り上げたことのある有名歌手だったからだ。そんな“成功者”が、なぜ、日本の地を目指したのだろうか。

共産主義の中国で
日本の歌に恋焦がれていた

「確かに私は、他の留学生たちとはちょっと事情が違っていたかもしれません。父は上海の共産党幹部で、日本にこなくても、何不自由のない生活を送ることができたと思います。しかも、来日する2年前には中国で歌手デビューし、一般の人よりも多くのお金を得ていました。私が日本に来たのは、大好きだった日本の歌に引き寄せられてとしか言いようがないんです」