新刊『ファイナンス思考 日本企業を蝕む病と、再生の戦略論』の刊行を記念して、著者の朝倉祐介さんと、慶應義塾大学総合政策学部准教授の琴坂将広さんとの対談をお送りします。琴坂さんも『経営戦略原論』(東洋経済新報社)を上梓されたばかり。しかも、お二人ともスタートアップ経営とマッキンゼーのコンサルタントを経験されたという共通項をおもちです。この対談後編では、経営戦略やファイナンスの理論やフレームワークが真に役に立つ使い方や、ファイナンス思考の実践企業について議論が進みます。
朝倉祐介さん(以下、朝倉) 抽象化された経営戦略論は実務で役に立つのか、という批判は常にありますが、琴坂さんは、戦略論は実際の経営の役に立つ、と言い切っておられますよね。
慶應義塾大学総合政策学部准教授
慶應義塾大学環境情報学部卒業。博士(経営学・オックスフォード大学)。小売り・ITの領域における3社の起業を経験後、マッキンゼー・アンド・カンパニーの東京およびフランクフルト支社に勤務。北欧、西欧、中東、アジアの9ヵ国において新規事業、経営戦略策定にかかわる。同社退職後、オックスフォード大学サイードビジネススクール、立命館大学経営学部を経て、2016年より現職。上場企業を含む数社の社外役員および顧問、仏EHESSのアソシエイト・フェローを兼務。専門は国際経営と経営戦略。主な著作に『領域を超える経営学』(ダイヤモンド社)、共同執筆にJapanese Management in Evolution New Directions, Breaks, and Emerging Practices (Routledge)などがある。(写真:野中麻実子、撮影協力:ラクスル)
琴坂将広さん(以下、琴坂) 100%役に立ちます。たとえば、定石を知らずに囲碁や将棋、チェスで勝つことは一定の水準を超えると不可能に近くなると思います。ある一定のレベルを越えた勝負は、お互いが定石を知ったうえでの戦いになるからです。たとえば、リアルオプション(オプションの価格決定理論を応用した事業評価手法)を使って企業価値を評価しましょう、シナリオ分析(石油会社シェルが1970年代初頭に導入したマクロ環境予測手法。決め打ちでなく、いくつかの起こりうるパターンとして予測する)しましょう、というような考え方はもはや定石ですから、そこは戦う前に知っておく必要があると思います。
朝倉 「マッキンゼー式」とうたった本が氾濫しているのも、フレームワーク至上主義を助長しているのかもしれませんが、フレームワークを知れば何でもできるという誤解がありますよね。一方で、フレームワークを勉強してみても、結局何もできない、役に立たないという妙な幻滅を感じる人も多い。
琴坂 経営の理論やフレームワーク、そして他社の事例は、ほとんどの場合はそのまま使うことはできません。ただ、自分に役立つ部分とそうでない部分を理解し、取捨選択できる自分の判断軸があれば、少なくとも思考の具材にはなるはずです。ポーターのフレームワークも、その背景や、有効だった時期・事象を理解していれば、それと自分の置かれた状況との違いを勘案することで、参考にできる点が多いはずです。
この本にもかなりの数のフレームワークを掲載しているので、そのある一つを取り出して、たとえばブルーオーシャン(競争の激しい市場を示すレッド・オーシャンに対し、競争の少ない市場)だ!と言ったぐらいでは全然役に立ちません。もちろん、それらをかなり網羅的に理解して、その上で自分の置かれた状況にとってはこの特定のフレームワークが最適だ、というのであれば話は異なると思いますが。
実際、マッキンゼー時代も含めて、これまでに30社ぐらいの戦略策定に立案者の一員として関わりましたが、一回も一般的に流通しているフレームワークを使ったことはありません。SWOT分析(戦略を検討する際に、企業の「強み」「弱み」、ならびに市場に存在する「事業機会」「脅威」を理解すべきとする考え方)もゼロ。その会社の言語を理解し、思考の軸をテーラーメードで作らなければ、本当の価値にはたどり着きませんよね。
朝倉 たしかに、マッキンゼーのプロジェクトでSWOT分析ってやった覚えがありませんね。マッキンゼーの内定研修時代に、基礎教養として、さまざまなフレームワークを勉強しますよね。「空・雨・傘<事実の認識(曇っている)⇒解釈(雨が降りそうだ)⇒判断(傘を持っていこう)と三段階で考える問題解決のフレームワーク>」だとか、「3C(経営戦略を策定するための、顧客・競合・自社を通じた環境分析)」「SWOT分析」、「セブン・ステップス(問題解決のアプローチ方法)」など……。フレームワークを知っているからプロジェクトが成功するなんてわけがない。そこを出発点として、いかに優秀な人材が徹底して脳みそに汗をかくかどうか。その結果でしかないと思います。
多くの企業の経営戦略で「PL脳」が共通言語になっている難しさ
琴坂 フレームワークにもう一つ価値があるとすると、組織内の指向の軸をそろえるうえで、共通言語になりますよね。経営は1人でやるわけではないので、自分だけが理解して何かを生み出すということでなく、思考方法をそろえてみんなで議論し、実行できないといけない。文化や行動様式より、思考や直感をナビゲーションするものが、成果を左右しますからね。この前提で「ファイナンス思考」を考えると、たしかに重要だと思います。
シニフィアン株式会社共同代表
兵庫県西宮市出身。競馬騎手養成学校、競走馬の育成業務を経て東京大学法学部を卒業。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て大学在学中に設立したネイキッドテクノロジーに復帰、代表に就任。ミクシィへの売却に伴い同社に入社後、代表取締役社長兼CEOに就任。 業績の回復を機に退任、スタンフォード大学客員研究員等を経て、政策研究大学院大学客員研究員。ラクスル株式会社社外取締役。株式会社セプテーニ・ホールディングス社外取締役。Tokyo Founders Fundパートナー。2017年、シニフィアン株式会社を設立、現任。著書に、新刊『ファイナンス思考』のほか新時代のしなやかな経営哲学を説いた『論語と算盤と私』(ダイヤモンド社)。
朝倉 一人だけ理解していても、「こいつは一体何を言っているんだろう」と周りに思われるだけですものね。言語がそろわないと議論ができません。この本が、共通言語をすり合わせる助けになればいいと思います。
琴坂 難しいのは、現状だと目先の売上・利益を重視する「PL脳」で言語が共通化されてしまっている企業が多いので、仮にファイナンス思考を学んでいいと思う人がいても、社内でそれを浸透させるのにすごく苦労するはずですよね。そこを「ファイナンス!」と言い続けて、味方をいかに増やしていけるか。おそらく、最初はとても孤独な戦いをする必要があって、最初に気づいた人は辛い思いをするはずです。
朝倉 ファイナンス思考だけでなく、おそらく経営戦略も同じだと思うのですが、これを社会や企業に広げていくのに、たかだか本1冊では到底無理だと思っています。企業や社会のなかで「ファイナンス思考的な考え方が必要かも」「経営戦略の理論を知ることって重要かも」といった共通認識が生まれていくには、どんな仕掛けが必要でしょうか。
琴坂 難しい問題ですよね。時間がかかるのは間違いない。戦争や革命、経済危機、倒産など、これまでの価値観が壊れる瞬間を迎えるようなことなしには、短期的には変わらないでしょう。ただ、最近は継続的に環境の変化があるうえ、「PL脳」の企業が倒産したり、倒産までいかなくても問題意識は確実に広がってきているので、どこかでティッピング・ポイント(小さな変化が、急激に大きく変化する時点)がくるはずだと思います。逆に、ファイナンス思考で素晴らしいパフォーマンスをあげる企業も出てきているので、その動きは加速するのではないでしょうか。
ファイナンス思考経営の企業は着実に増えてきている
朝倉 この本では、ファイナンス思考の経営の実践例として、みなが“いかにも”“あの会社・経営者だからできる”と思いそうなアマゾンやリクルート以外に、関西ペイントや日立製作所など、ある意味で伝統的な日本企業で強烈な創業者も今はいないような地道な企業も挙げました。その点は多くの企業にとってファイナンス思考の重要性を納得してもらいやすいのではないかと思っています。
ここで取り上げた企業の共通点を上げるとすると、危機に瀕した経験がある、という点なんですね。JT(日本たばこ産業)は民営化直後にプラザ合意を受けて急激な円高に見舞われたうえ、外国産たばこの関税撤廃があって、激しい競争にさらされました。しかも、収益のほとんどを上げていた国内たばこの消費量が確実に減少するという予測がたちました。そこから必死に海外事業を拡大しようとM&Aを積極化した。コニカミノルタはデジタル化によって主力であるカメラ事業とフィルム事業の急激な縮小に見舞われて合併しましたが、合併後も新規事業の確立や財務立て直しを必死に進めました。いずれも、天変地異や黒船来襲といえるタイミングでギアチェンジするわけですが、本当はその前にファイナンス思考の経営に変われるのが理想だと思います。
琴坂 まだすべては顕在化していませんが、ファイナンス思考で経営している企業は着実に増えていると思います。私も『ファイナンス思考』でも取り上げられているコニカミノルタは新規事業を生み出すための仕組み化などとても素晴らしいと思ってます。あと、直近の株価は低迷気味ですが、GEはやはりすごいなと思います。あの株価でもヘルスケア事業を売却する意思決定ができるのは、ファイナンス思考ゆえでしょう。孫正義さんはあえて語る必要もないでしょうけれど……こう考えると、かなり沢山ありますよね。
朝倉 たしかピジョンなどは、自社の資本コストと税引き後の営業利益の差分を示した「PVA(Pigeon Value Added)」という独自指標を設けていて、それを中期計画にも盛り込んで進捗を発表するなどして、IRでも評価が高いですね。
琴坂 スタートアップの中にも、RIZAPやユーグレナ、じげんなども面白い。メルカリの人材登用も、ファイナンス思考の成果とも言えるかと思います。人材のような見えないものに先行投資する、いわば非財務分野におけるファイナンス思考のようなものも大切です。この人材に投資するとカルチャーが上がる、など、先行指標としてファイナンス思考を導入できると企業は強くなるのではないでしょうか。ファイナンス思考という言葉を広く捉えると、幅広い可能性があると思います。
いろいろとすでに実践例は出てきていて、多くの人がうっすら頭では理解できているけれど、まだ言語化できていないのが、ファイナンス思考ではないでしょうか。朝倉さんがそれを、うまく伝える形でパッケージして出してくれた意義は大きいと思います。これって、学者の仕事に似てますね。ファイナンス思考は、朝倉さん自身が実践してきたことでもあるし、さらに朝倉さん自身が世の中に暗黙的に存在したものを事例も調査しながら1年間かけてまとめ直した成果でもある。しかも、巻末には会計・ファイナンスの基礎に関する解説までつけてくれている(笑)。
朝倉 この巻末付録は、学部の学生さんにも役立つと思うんですよね(編集部注:7/19より、この巻末特別付録と「はじめに」をセットにした無料特別版を、電子書籍限定でKindleから順次リリース!)。ぜひ学生さんたちにも薦めてください(笑)。
琴坂 もちろんです。今日はありがとうございました。