ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑・京都大学特別教授と、大阪の中堅製薬会社である小野薬品工業は、世界の薬物治療の主役に躍り出る新薬の開発に成功するまでの15年間、文字どおり長く険しいものだった。週刊ダイヤモンドでは、2015年4月18日号でこの苦闘の歴史を紹介。本庶佑・京都大学特別教授のインタビューも敢行している。改めて、本庶佑・特別教授と小野薬品の功績と苦闘を振り返る。(週刊ダイヤモンド編集部)
訪ねて回ること国内外11社。手応えはゼロ。全滅だった。2002年、大阪に本社を置く中堅製薬会社の小野薬品工業は同業に抗がん剤を共同開発してくれるよう提携を申し入れたがけんもほろろ、「全社から断られた」と粟田浩副社長は苦々しい表情で当時を振り返る。
小野が開発を進めようとしていたのは、京都大学の本庶佑教授(当時)のグループが発見したPD‐1という分子を標的とした薬。がんに対する免疫細胞の攻撃スイッチをオフからオンに戻すというアプローチだ。
通常の化学合成でできる低分子の薬ではなく、高分子の抗体で作る必要があった。同社には抗体医薬を作るノウハウも設備もない。
長年付き合いのある本庶教授が発見した分子ががんの治療に効きそうだと分かって研究開発に乗り出したものの、小野はがん領域の素人同然。パートナーなしでの開発は難しかった。
各社が断る理由は明確だった。PD‐1に対する抗体であるこの薬が、がん免疫療法と呼ばれるものだったからだ。
提携どころか「会社つぶれるぞ」
と冷ややかな視線
がん専門医にとって、がん免疫は100年の歴史があるが、科学的に有効性が証明されない治療法が多く、にもかかわらず免疫を高めて治すとうたって患者から高額な治療費を巻き上げるクリニックや業者が跋扈。がん医療の正統派の間では、「詐欺まがい」という嫌悪感がまん延していた。