エスカレートする日本社会の生きづらさ
「空気」という言葉から、日本社会の息苦しさを連想する人は多いのではないでしょうか。自由に意見が言えず、人と違えば叩かれ、同調圧力を常に感じる。
山本氏は『「空気」の研究』で、日本の組織・共同体は「個人と自由」という概念を排除する、と指摘しました。
最近ではネットやSNSでの誹謗中傷、匿名の集団による個人攻撃もエスカレートしています。学校ではいじめや自殺がなくならず、会社ではブラック企業や過労死が問題になっています。
1977年に同書が世に出て以降、日本社会の生きづらさは改善されるどころか、益々ひどくなっているように思えます。では、なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのでしょうか?
それは、私たちの社会に浸透する「空気」と大いに関係しているのです。
「空気」が日本を再び破滅させる
東日本大震災後の国の対応、東京都の築地市場の移転問題、相次ぐ巨大企業の不祥事と隠蔽、次々と明らかになる組織内でのパワハラやセクハラ……。その都度指摘されるのが「同調圧力」「忖度」「ムラ社会」「責任の曖昧さ」などです。
問題への対処にさえ「なかったフリをする」「起きた事故の惨禍に目をつぶる」など、日本社会の悪しき慣習が、この国の問題を拡大して日本人を苦しめているかのようです。
『「空気」の研究』で、山本氏は衝撃的な予言を残しています。
もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろう(*1)
山本氏は砲兵士官として1944年にフィリピンのルソン島に出撃し、その地で敗戦を迎えています。そのため『一下級将校の見た帝国陸軍』などの軍体験を活かした著作も多いです。その山本氏が「日本が再び破滅するなら、空気のためだ」と予言しているのです。
敗戦後の日本は、1980年代まで経済成長が続き、一億総中流時代と呼ばれた豊かな時期を経験していました。その頃すでに、日本の未来に「空気による破滅」を山本氏は予感していたのです。
旧日本軍の失敗と今の社会問題に共通すること
終戦直前、護衛戦闘機もなく沖縄へ出撃した戦艦大和は、アメリカの戦闘機の波状攻撃を受けて戦果なく撃沈されました。無謀な作戦の理由を聞かれて、軍令部次長だった小沢 治三郎中将はこう答えたと言います。
「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う(*2)」
山本氏はこの発言に「空気」の存在を見ていました。
当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる(*3)。
さらに、山本氏は大胆に、空気を「妖怪」のようなものだと指摘します。
統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる(*4)。
「空気」で合理性が消し飛ばされ、非合理極まりない決定に突き進むかもしれない。日本が破滅の道を避けるには、「空気という妖怪」の正体を見極めるべきなのです。
なぜ穏和な日本人は集団になると攻撃的になるのか
日本社会でたびたび問題となる「いじめ」。集団の中で誰かを多数で攻撃したり、陰湿な差別をすることに、学校現場で歯止めがかかりません。いじめの対象にされた子どもが自殺する痛ましい犯罪がいまだに続いています。
最近では、ネットや不特定多数が参加するSNSでも、特定の人物を袋叩きにするような現象が頻繁に起こっています。
空気を乱す者を敵視して、集団になると個人の倫理を捨てて一斉に攻撃する陰湿さ。日本人は性格的に穏和な人が多いと言われながら、特定の状況には極めて非情、不寛容で仲間外れにすることに容赦がありません。まるで古い時代の村八分のようです。
一体、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。そしてなぜ、日本社会はそれを克服できないのでしょうか。
日本的なムラの仕組みにも、「空気」が大きく関係しているのです。
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.20
*2 『「空気」の研究』 P.15
*3 『「空気」の研究』 P.16
*4 『「空気」の研究』 P.19