たいがいの人が、新渡戸稲造の名前はご存じだろう。しかし残念ながら、彼が何者かを知る人は少ない。
1920年代、第一次世界大戦後に創設された国際連盟の事務次長として、フィンランドとスウェーデンの間にあるオーランド諸島の帰属をめぐる紛争を平和裡に解決させたことは、新渡戸の代表的な業績である。
もう一つ、『武士道』を著したことである。セオドア・ローズベルトはこの『武士道』に大いに共感し、日露戦争の講和に尽力した(その功績によりノーベル平和賞を受賞)。同じくジョン・F・ケネディ大統領も、『武士道』を座右の書の一つに挙げている。日本の産業界に目を移せば、東京通信工業(現ソニー)初代社長の前田多門氏は東京帝国大学時代より新渡戸に師事した。彼の後を襲った井深大氏も新渡戸に私淑し、『武士道』の熱心な読者であったという。
国境を超えて偉大なリーダーたちに多大な影響を及ぼしてきたこの書物は英語で書かれ、1900年にアメリカ・フィラデルフィアで発行された。以後、日本語を含め、30カ国語以上の言語に翻訳されている。
市場原理を第一義とする新自由主義、経済や企業活動のグローバル化、それと軌を一にする日本社会の多元化、ようやく真剣に取り組まれつつある女性の積極的活躍など、さまざまな国籍や文化、イデオロギーや価値観が交錯する時代にあって、『武士道』は上梓されて110余年も経っているものの、日本人がこれから世界の中でいかに振る舞い、自分たちとは異なる人たちと共存共栄していくべきか、その軸となる心の持ち方を教えている。
たとえば、宗教やイデオロギーが異なろうと、さまざまな国の人たちの存在価値を認識し、互いに謙遜し、互いに学び合い、互いに支え合うことを、我々に求める。それは、「新しい道徳」、すなわち社会の上下関係から成る縦の道徳だけでなく、人々の間に存在する横の関係を尊重する道徳の必要性である。したがって、新渡戸は、男女間のあらゆる差別に反対であった。日本も世界も男性と女性は半々であり、男性ばかりが頑張ったところで、もう半分の女性が力を発揮できなければ、日本の発展もなければ世界の成長もない。実は『武士道』の中で最もページが割かれているのは「第14章 女性の教育とその地位」である。
これは縦の道徳の話になるが、勝海舟の「刀でも、ひどく丈夫に結わえて抜けないようにしてあった」という逸話と合わせて、「武士道は刀の正しい使用を大いに強調したのと同様に、その誤った使用を非難嫌悪した。揮う必要もないのに刀を振り回した者は、卑怯者でありほら吹きであった」と戒める。刀を「権力」「権限」と置き換えてみるとよい。いまも昔もそうだが、大半の人たちが、それがいかに小さなものでも、権力や権限の持ち主になるや、むやみにそれを行使しがちである。
新渡戸はこうも述べている。「地球上のすべての国民の精神的価値は、その国民の伝統文化に根ざしている」。すなわち、地球上で生活するあらゆる国民の歴史は、それぞれが人類の歴史の一ページを代表しており、その価値は取り返しのつかないもので、敬意を払わなければならない。そして、そこから相互の信頼や扶助が生まれてくる。
日本の武士道と西洋の騎士道を比べながら、そこには同じ基本的な人間精神が通底していると指摘する。「任意の二つの文化が表面上どれほど異なっているように見えようとも、それらは人間が創り出した文化であり、そういうものとして深い類似性をもっている」
事業や経営の知識や経験、人事制度や研修では、真実のリーダーを生み出すことはできない。人格を形成できるのは人格だけである。その涵養に、いまなお『武士道』は多方面から有益な示唆を与えてくれるはずである。
●構成・まとめ|岩崎卓也 ●イラスト|ピョートル・レスニアック