自分がそう望むと望まざるとにかかわらず、どうしようもなく似てしまうのが親。積極的に「親に似たい」と考える人は少数派だろうが、遺伝とは恐ろしいもので、年とともに共通点が増えていく傾向がある。父親に似てきたと気づいた時、中年男性たちは何を思うのか。(取材・文/フリーライター 武藤弘樹)
男児が抱く父への思い
その父に似るということ
子どもが父母に対して持つ印象はそれぞれ、父母の役割に立脚したものに自然と寄せられる。例えば昭和は専業主婦の家庭が主流だったから「父は仕事、母は家事育児」であり、母は母性の象徴であり優しい存在、父は捉えどころがなくなんだか近寄りがたい存在となっていた。
また昭和は教育の一手段として体罰上等であったから下手を打った子どもに対して親父のげんこつが振るわれた。家庭によっては「父=おそろしい」であり、子は服従か抵抗かの選択を迫られた。
無言の背中で苦労を語る父に対して、男児はややこしい感情を抱きながら成長していくことになる。父への反感、尊敬の念、情、肉親がゆえの疎ましさなどがない交ぜになった消化しがたき父への思いは、男児と父の間に壁となって屹立していた。
これに精神分析的な観点から考察を加えるのであればエディプスコンプレックスがどうこうという話になるのであろう。男児は異性である母を手に入れるために同性の父と対抗しようとする心理衝動がありうんぬん……とまあ、難しいことはよくわからないのだが、「どうやら精神分析の世界でも、男児と父の関係性は“ややこしい”と見られているようだ」というのが見て取れる。
時代によって父のあり方の典型は変わってきているので昨今の「フレンドリーなパパ」はまた違った受け入れられ方をするのであろうが、とかく昭和あたりの一昔前までは上記のような父親像が一般的であった。
そして男児が歳を重ねてあの頃の父親と近い年齢になり、ふと自分と父親にそっくりな部分があることに気づいてがくぜんとさせられることがある。まさかあの父に似るなんて。どこか隔たっていたあの父にである。この時は年相応の余裕があるので、自己嫌悪よりかは感慨深さが先に立って感じられることになる。
今回は「父と似ている点を自覚した中年男性」たちのエピソードを紹介したい。