――自民党は「4島一括返還」を党是にしてきたはずです。もはやまちがっているということですか?

「『4島一括返還』という言葉は、ソ連時代に『領土問題は存在しない』と言われたので、日本側は強く主張するために使った表現です。歴史的事実を知らない人が、いまでもそう言っているに過ぎません」

――国民の間でも「4島一括返還」という言葉は定着しています。4島が困難だから、2島にかじを切ったのではないかという見方もあります。

「それは外務省に責任があると思います。右翼団体などの抗議を恐れて、これまでの歴史や交渉の経過を正直に伝えてこなかったのです。60年以降、停滞していた北方領土画定の問題が再び動き始めたのは、91年4月の日ソ共同声明です。当時のゴルバチョフ大統領が初めて4島の名前を挙げて、文書で認めてくれたのです。そして、同年12月にソ連が崩壊します。このころから、日本政府は段階的な交渉を進めていく方針に転換します」

「まず、93年に細川護熙首相とエリツィン大統領が、4島の帰属問題を解決しましょうということで『東京宣言』に署名します。4島の帰属問題を解決する組み合わせは5通りしかありません。『ロ4日0』『ロ3日1』『ロ2日2』『ロ1日3』『ロ0日4』。主張すれば4島すべて日本に返還されるというものではないのです」

――「2島先行返還論」がいわれ始めたのも、そのころからです。

「橋本龍太郎首相から、小渕恵三首相、森喜朗首相までは『2+2(ツー・プラス・ツー)』の方針でやってきた。まず歯舞、色丹の2島を日本に引き渡してもらおう。残りの国後、択捉は話し合いでどちらに帰属するかを解決するというものです。『2島先行返還で2島ポッキリだと言っている。国賊だ』などと私は当時、非難されましたが、政府の方針通りに進めただけです」

「北方領土が一番近づいたのは、01年3月の森・プーチン会談での『イルクーツク声明』でした。プーチン大統領は56年宣言の有効性を認め、『まず歯舞、色丹の返還交渉。その次に国後、択捉の帰属問題の交渉』という並行協議を了承してくれた。そして、次の首脳会談で文書にすることになった。私は森首相に指名されて、この時の会談に同席していましたから鮮明に覚えています」