また、想定していないタイプの子どもや大人が来訪して、想定外の言動がある場合に対応できない場面もある。そして、何らかのトラブルが発生してから互いに傷つくことになる。

 しかし、「子ども食堂」という枠組みを超えて考えてみると、それらの問題や課題は世の中に広く存在し、ノウハウも蓄積されている。前述の課題については、地域コミュニティ活動や「学級崩壊」に関する知見やノウハウが役に立つだろう。地域の公共図書館が、案外、役に立つかもしれない。それ以前に、人が集まって何らかの活動を行えば、当然、起こり得ることばかりだ。

“既成事実“を肯定的に言い換えれば、「ニーズがある」ということだ。地域のニーズを完全に無視していない限り、どのような「子ども食堂」も、何らかの形でニーズに応じることになる。結果として、大人ばかりの「おとな食堂」になったのなら、その地域にもともとあった大人の問題に、「子ども食堂」が何らかの糸口を差し出したわけだ。

 そこに何らかのニーズがあり、「子ども食堂」が部分的にでもニーズを満たすのであれば、「子ども食堂」という“既成事実“は、今後も拡大するだろう。そして、現在すでに追いついていない「支援者の支援」は、さらに深刻な問題になるだろう。

 腕組みして嘆息するのではなく、解決のために具体的な手段をつくる必要があるだろう。

公正性と透明性を
誰が担保するのか

 2つ目の問題は、公正性と透明性だ。最初の課題である「“既成事実”の拡大」に一定の歯止めをかけるためにも、必要とされているはずだ。

 それぞれの「子ども食堂」が活動を開始するとき、表向きの目的、あるいは密かな動機には、「子どもの貧困の解消」「地域活性化」「自分の寂しさの解決」「感謝されたい」など、極めて雑多な内容が含まれているはずだ。人間の生活はもともと極めて雑多なのだから、それは自然なことではある。目的や動機が何であっても、「子ども食堂」が何らかの公共性を担っていることは間違いない。「公共性が保たれている」という状態の尺度の1つとなり得るのは、公正性と透明性だ。