カエルを茹でて
先生に叱られる

グローバル企業で通用しない日本人問題森岡毅インタビュー[5]森岡 毅(もりおか・つよし)
戦略家・マーケター
高等数学を用いた独自の戦略理論、革新的なアイデアを生み出すノウハウ、マーケティング理論等、一連の暗黙知であったマーケティングノウハウを形式知化し「森岡メソッド」を開発。経営危機にあったUSJに導入し、わずか数年で劇的に経営再建した。1972年生まれ。神戸大学経営学部卒。1996年、P&G入社。日本ヴィダルサスーン、北米パンテーンのブランドマネージャー、ウエラジャパン副代表等を経て2010年にユー・エス・ジェイ入社。革新的なアイデアを次々投入し、窮地にあったUSJをV字回復させる。2012年より同社チーフ・マーケティング・オフィサー、執行役員、マーケティング本部長。2017年にUSJを退社し、マーケティング精鋭集団「刀」を設立。「マーケティングで日本を元気に」という大義の下、数々のプロジェクトを推進。USJ時代に断念した沖縄テーマパーク構想に再び着手し注目を集める。著書に、『USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』(KADOKAWA)、『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』(KADOKAWA)、『確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力』(共著、KADOKAWA)、『マーケティングとは「組織革命」である。 個人も会社も劇的に成長する森岡メソッド』(日経BP社)

――生まれつきの人間の特徴ってあるのでしょうね。

森岡 想像力みたいなところで、空想を作るのが好きな人、ゼロからイチを生み出すのが好きな人と、リアリティーなことを描写することしか興味が湧かない人とか、絵を描かせても全然性格違うし、文章書かせても違うじゃないですか。ほとんど生まれつきで決まってるんじゃないかと思うんですよ。自分が持って生まれたものに気づけるかという勝負のような気がします。自分の一番「まし」な部分に気づいて、そこを戦略的に磨くことができた人が成功者なんですね。私は、最初数字が好きだった。でも、計算ドリルとか大嫌いでした。3+4を計算したら、次は2+6を計算しなくちゃいけないとか、すごく嫌だったんです。ワーって言うぐらい嫌いだったんですよ。

――つまらない?

森岡 つまらないですね。同じことをずっとやるのって。何もせずにそこにずっと正座しとけって言われる感じなんですよ。3+3のあとに4+5をやって、2+4をやって、あ~ってなるんですよ。数学って世の中の成り立ちを解明するための道具なわけですよ。なんで昆虫の足は6本なのかを数学的に証明しなさいとか、どうして将棋の角は斜めにしか進んだらいけない設定になったと思うのか数学的に論証しなさいとか言われたら、もうめちゃくちゃ楽しいわけですよ。ゲームバランスがどう狂うから、消去法でこういう動きしか設定しえなかったという消去法論拠を出してくる思考法の人と、そうじゃなくて、角が斜めに進むがゆえにゲームバランスのこの重心を担ってるんだという選択法で証明してくる人とか、いくつも考え方があり得るわけですよ。実はもっと方法があるかもしれないと考えるとすごくクリエイティブなんですね。他の見方は何があるんだろうと考えていくと、永遠に頭の中が刺激に満ちて楽しくなるわけですよ。それに比べたら、2+4と5+3って、何も発見がないじゃないですか。

――頭を使わないことはダメなんでしょうね。

森岡 クリエイティビティがない単純労働は苦痛ですね。あと、あれも嫌だったな。夏休みの自由研究も嫌だった。本当に研究するとめっちゃ怒られたからな。ぜんぜん自由じゃない。小学生のときに、カエルの実験をしたんですけど、学校の先生に怒られました。

――なんでですか。

森岡 「ゆで蛙の喩え」があるじゃないですか。熱湯の中にポチャンってカエルを入れると熱くて飛び出すけど、水の時からカエルを入れて、徐々に熱くすると気がつかないうちにゆでられてしまう。つまり、急な変化なら気づいて対応できるけど、ぬるま湯の社会が徐々に変わっていくと人間も気づかないうちに焼かれてしまうから気をつけろっていうことですね。それ、学校の先生が言っていて、ほんとかなと思ったんです。直感的に何かうさんくさいものを感じたんです。

 だから本当かどうか“自由研究”してみた。実際に、熱湯の中に放りこんだカエルは100パーセント、一撃で死んだんですよ。13匹放りこんで、1匹も生き残れなかったんです。それもアマガエルとトノサマガエルで、トノサマガエルはちょっとだけ動きますけど、コンマ1秒で死ぬのとコンマ3秒で死ぬのの差があるだけで、死ぬは死ぬ。誰も熱湯の中に入れたら生き残れない。ゆで蛙のほうがまだ長いこと生きられる。だから結論は「ゆで蛙のほうがましです」という夏休みの研究ですよ。で、カエルをゆでた写真をペーっと貼ったら、先生にめっちゃ怒られた。生き物の命をなんだと思ってるのって怒られた。正直いうと、当時の私には怒られている意味がわからなかった。大人の言うことに疑問を持った、そして世界をより知ろうとした、それが嘘であることを証明した。それでどうして怒られるねん!? と。そんなに残酷で酷いことなら、そんな残酷な例え話(しかもウソの話)を最初からするなよと。さっきの綱引きやこのカエルだけではなく、似たような経験は山ほどあります。興味を持ったことに夢中で取り組むと、いつも世界は私に罰を与えたんですね。私にとっては世界はとっても窮屈だったんですよ。
――そういう意味だったんですか(笑)。まあ、先生の道徳的指導というのもわからなくはないですが……。

森岡 ゆで蛙の実験。ちゃんと対照実験しましたよ。今考えたら、文部大臣賞をもらえてもいいかもしれない実験ですよね。

――確かにそういう実験とか論文とかあっても不思議じゃないですよね。

森岡 ですよね。でも冷静に考えたら、熱湯の中に放り込まれたら人間でも死ぬのに、カエルのあの大きさで、熱湯の中で生きれるわけないじゃないですか。一瞬で煮えますよ、フエってなって。にもかかわらず、そんなウソの話を平気で疑問を持たずに多くの大人が使っているわけです。しかもそこの自由研究の2つ目の結論が、みんな同じポーズで死ぬっていう。こう思いきり万歳して、みんな同じポーズで死ぬって結論に。それは筋肉が一気に収縮するときに最後になるポーズが同じだからですよ。非常に理に適っている。カエルの筋肉の構造は、トノサマガエルもアマガエルも同じだからです。だから急激な熱に対しては同じポーズで死ぬって結論を示すために写真を貼った。

――それを残酷だと思われたのですね。

森岡 今考えると、もちろん残酷ですよ。ただ、この頃は子どもだったので、自分が興味を持つとその謎を解き明かしたい衝動だけで頭が一杯になってしまって、カエルの命よりも「その謎を解かずには眠れない! 死ねない!」という状態になってしまったんですね。教師が命の大切さの視点から私を叱ったのもわかるのですが、問題は命の大切さの視点だけで全否定してしまうことだと思います。その子どもはカエルを殺したかったのでは全くなく、この世界の定説に疑問をもち、自ら実験までして、世界の真実をより良く知ろうとした。そこにあった純粋な知的好奇心や科学的アプローチの発露までも、全否定して罰だけを与える社会では、そういう世間の相場に合わない子どもは、窮屈で窒息しそうな毎日を送るしかないのではないでしょうか。

参考記事

AI時代に伸びる人、淘汰される人
森岡毅インタビュー[4]