では、なぜお客さんはあえて「蒸しているから」とつけ加えたのでしょう。それはどこか自信がないからです。「何か理由をいわなければ、コミュニケーションに問題が起こるのではないか」と懸念している可能性があります。

客のおうかがいに対して
親方が「いいね」を出す瞬間

 もっと興味深いのは、「生ビールで」というとき、語尾が伸びるのです。文字で表記するなら「生ビールでぇ……」といったあいまいなニュアンス。しかも、音が伸びる瞬間、それまで下を向いていたお客さんが、チラッと親方の表情をうかがう様子を見せました。

 このしぐさ、講義で先生から質問された学生が答えるときの様子にとてもよく似ています。自分の行為を相手がどう評価するか、気にしているのです。自分のやっていること、言っていることが、正しいかどうか不安なのです。

「この答えで合っていますか?」と、言外に立てる“おうかがい”です。

 対する「生ビール、行きましょう」という親方の返しも、よく考えるとちぐはぐです。「行きましょう」の主語は本来お客さんのはず。一見すると、鮨屋の親方までお客さんの一員かのような言い回しになってしまっています。

 これは、お客さんの出した注文と、その言葉に含まれている「合っていますか?」というおうかがいに対して、「それ、いいね」と親方が合格点を出した瞬間なのです。

 ほんの10秒の間の言葉の裏に、こんなにおもしろいコミュニケーションが起こっています。

 ところが、お客さんが変わると、親方とのやりとりもガラリと変わります。次の例は、とある別のお客さんが店に入って、座った瞬間の会話です。

 親方 お飲み物はどうしましょうか?

 客  ビールを

 親方 大瓶と小瓶がございますが?

 客  小瓶で

 お客さんが座ろうとした瞬間、親方が投げかけるのは、先のお客さんへの質問とまったく同じです。しかし、このお客さんは淀みなく「ビールで」と返事をします。