では、郵便事業を例に、前島の構想力を具体的に見てみよう。

 前島が明治政府に招聘(しょうへい)されたのは明治2(1869)年。翌年、運輸や通信をつかさどる駅逓権正(えきていごんのせい)に就任する。

 当時の政府は、近代国家としての中央集権体制の確立には、全国津々浦々に物資や情報を行き渡らせるシステムが不可欠と考え、制度の改革を急いでいた。

 改革を任された前島は、次のような全体構想を描いた。

 当時の通信や運輸は、民間の「飛脚屋」が独占していた。その際、例えば政府が東京と京都・大阪の間で、公用文書を往復させるのに、1ヵ月で合計1500両(現在の600万~1000万円)ほどかかっていたという。

 当時、東京~京都間の料金は、早飛脚の場合で1回につき35両だった。単純計算で、毎月およそ43回の早飛脚が往復していたことになる。

 それならば同じ1500両で、東京から京都を経て大阪まで、毎日一定の時刻に「飛脚の定期便」を立てることが可能だ。

 この定期便のルート上であれば、一般庶民の親書を有料で引き受けることもできるだろう。そうすれば売り上げが立つ。

 最初は、これまでと同じ月額1500両の予算でスタート。その後、一般庶民からの売り上げを利用して、毎月少しずつ路線を拡張すれば、無理なく全国隅々に広げられる。

 こうして明治4(1871)年に、東京・京都・大阪を結ぶルートで郵便制度が施行された。

 ただし、1つ問題があった。一般庶民の需要に応えるためには、親書を引き受けたり、中継したりする「郵便局」が必要だったのだ。しかし、政府の厳しい財政事情では、そのためのすべての費用を捻出するのが難しかった。

 そこで前島は「郵便御用取扱所」というシステムを考案する。

 これは各地方の庄屋や豪農、名家を「郵便御用取扱人」に任じ、「お上」の権威のもと、わずかなお金で、彼らの屋敷を郵便局舎として使わせてもらう、というものだ。

 郵便御用取扱所は、明治5(1872)年7月に郵便事業の全国展開が開始されて以降、すさまじい勢いで全国各地に設置されていく。