強い自由主義とは?
「さて、次は強い自由主義の話だ。さっき私は『幸福 > 自由』である者たちを『弱い自由主義者』と分類した。なぜ彼らが『弱い』かというと、幸福の方が大事である以上、状況次第でいつ手のひらを返して自由を制限してくるかわからないからだ。ゆえに、私はそれを自由主義として『弱い』思想だと定義する」
「では、その逆、『強い』とは、『強い自由主義』とは何だろうか? それは弱い自由主義のちょうど正反対、『自由 > 幸福』を旨とする者たちのことを言う。彼らにとって幸福はあまり関係ない、いやまったく関係ないと言っていい。強い自由主義者にとって重要なのは、人間に与えられたもっとも基本的な権利である『自由』を守ることであり、そこから生じる結果についてはいっさい問わない。その意味で強い自由主義者は、とてもシンプルだと言える」
『自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、
自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』
「そこに結果も事情も幸福も関係ない。いかなるケースにおいても、単純に、愚直に、たとえ誰が不幸になろうとも、自由を守ることが正義だと考える、それが強い自由主義だ」
想像以上に自由な自由主義だった。でも、それって大丈夫なのだろうか?
ふと先生と目が合った。疑問があればどうぞと質問を促す目をしていたので、それにつられるように僕は手をあげた。
「そうすると、殺人とか、泥棒とか、明らかに不幸を生み出すことでも、強い自由主義は肯定するということでしょうか?」
「良い質問だ、正義くん。当然の疑問だろうね」
スキンヘッドを撫で回しながら、先生は言った。促されたとはいえ、生徒の自主的な質問にとても嬉しそうだ。
「正義くんのその質問への答えは、否だ。強い自由主義では、その手の不当行為については、やってはいけないこと、悪いことだと否定する。その理由は、先に述べたようにシンプル―『自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』からだ」
「功利主義であれば、人を不幸にするから、もしくは苦痛を生み出すから、という理由で殺人を否定するだろう。だが、強い自由主義にとって、殺人は人を不幸にするから悪なのではなく、他人の自由を奪うから、望まない痛みを強制するから、悪なのである」
「だから、強い自由主義については、次の標語、合い言葉で理解するといい」と言って、先生は黒板に短い文を書いた」
『自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて』