武器としてのリベラルアーツ
目の前の枠組みを疑う技術

 さてここまで、オールドタイプがサイエンスに依拠して「目に見える問題の解消」だけに関わろうとするのに対して、ニュータイプはリベラルアーツに軸足を置いて未来を構想する、ということを説明してきたわけですが、なかには「なぜリベラルアーツが未来を構想するのに役に立つのか」と訝しく思う方がいるかもしれません。

 結論から言えば、リベラルアーツというのは、私たちが「当たり前だ」と感じていることを相対化し、問題を浮き上がらせるためにとても役に立つのです。

 この問題を考えるにあたって、一つ読者の皆さんに質問をしましょう。それは「なぜ金利はプラスなのか?」という問いです。おそらく多くの人は「お金の借り手は、貸し手が失った機会分の費用を負担しなければならない」とお答えになるでしょう。確かに、現代を生きる私たちにとって「金利はプラスである」ということは常識となっています。

 しかし、これは現代にしか通用しない常識です。たとえば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていた時期が長く続きました。マイナス金利の社会では現金を持っていることは損になり、なるべく早期に、できるだけ長く価値を生むことになるモノと交換するのがいい、ということになります。

 では、最も長い期間にわたって価値を生み出し続けるものはなんでしょうか? そう、宗教施設と公共インフラです。このような考え方のもとに推進されたのがナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築でした。

 この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者を集めて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていったわけです。

 私たちが当たり前の前提として置いている常識の数々は、実は常識でもなんでもない、「今、ここ」でしか通用しない局所的・局時的な習慣に過ぎないのだ、ということを忘れてはなりません。

 リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいないことです。リベラルアーツのリベラルとは自由という意味であり、アートとは技術のことです。したがってリベラルアーツとは「自由になるための技術」ということになります。

 では、ここでいう「自由」とはなんのことでしょうか? もともとの語源は新約聖書のヨハネ福音書の8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ています。

「真理」とは読んで字の通り、「真の理(=ことわり)」です。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、と言っているのです。そのとき、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それはたとえば「金利はプラスである」という思い込みです。

 つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う・疑う」ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります。

 しかし一方で、すべての「当たり前」について疑っていたら日常生活は成り立ちません。どうして信号は青がススメで赤がトマレなのか、どうしてサヨナラのときには頭ではなく手を振るのか……いちいちこんなことを考えていれば日常生活は破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがあります。

 つまり、常識を疑うのはとてもコストがかかる、ということです。一方で、目の前の常識について問い、疑うことをやめてしまえば未来を構想することはできません。

 結論から言えば、このパラドックスを解くカギは一つしかありません。つまり、重要なのは、よく言われるような、のべつまくなしに「常識を疑う」という態度ではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つ、ということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアーツということになります。

 リベラルアーツというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。

 スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができました。あるいはチェ・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜキューバの状況はこれほどまでに悲惨なのか」という問いを持つことができました。

 目の前の世界を「そういうものだから仕方がない」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアーツはそれを映し出すレンズとして最もシャープな解像度をもっているということです。