リーダーの役割は「問題を設定する」こと

 ここで「問題の設定」と「問題の解消」という2つの役割を組織に当てはめて考えてみましょう。

 すぐにわかることですが、組織の上層部になればなるほど、仕事の重心は「問題の設定」へと傾斜し、組織の下層部になればなるほど、その比重は「問題の解消」へと傾斜することになります。なぜなら、経営の課題=アジェンダを設定するのは経営者の仕事であり、経営者が定めたアジェンダを現実に解消していくのは中堅以下スタッフの仕事だからです。

 さて、このように考えてみれば、組織の上層部に求められるリテラシーと、組織の下層部に求められるリテラシーにはどのような違いがあるかが理解できます。それはつまり「問題の設定」に大きな比重が置かれる「組織の上層部」にいる人々には、課題を設定するためのリテラシーとしてのリベラルアーツが求められることになる。

 その一方で、「問題の解消」に大きな比重が置かれる「組織の下層部」にいる人々には、課題を解消するためのリテラシーとしてのサイエンスが求められる、ということです。

 そして、そのような要請に応えて実際に人材が配置されているのであれば、先述したペイスケール社の統計の結果、すなわち「スタッフ層で相対的に高い報酬を得られているのはSTEM系学位の保有者だが、最も高給な人々(=組織や社会のリーダー層)にはリベラルアーツ系学位の保有者が多い」という結果が得られるのは当然だ、ということになります。

 しかし、近年に至って、多くの企業では、必ずしもそのような役割分担が機能しなくなっているという実感があります。特にMBAに代表されるような「数値分析」を重視する傾向の強まったここ10年ほどのあいだ、この役割分担が逆転し、「未来を構想する」という最も重大な仕事をほっぽらかしにしたまま、経営者が「問題の解消」にかかりきりになっているというトンチンカンな茶番が多くの企業で演じられているように思います。

 このような傾向は、つまるところ人文科学的素養の少ない無教養な経営者と、彼らの手足となって数値分析を回し車のハムスターのように行うMBA卒業生や統計リテラシーを持つ理数系出身者の相思相愛によって発生したものだと考えられます。

 これまで受験勉強に代表されるような「正解探し」をずっと続けて出世してきたような経営者は自らの五感をフルに働かせて社会や未来を全体的に把握しようとする知的格闘を恐れ、目の前の事象を単純化したモデルとしてゲームのように捉え、抽象化された断片的なデータを用いて意思決定することで「経営しているような気になってしまう」傾向があります。

 このような状態に陥ると本人の世界観は孤立し、社会や顧客や従業員との接点が失われてしまうため、問題や事象を捉えるために他者から与えられた単純な分析データに頼ろうとする傾向が強く現れます。

 そこに待ってましたとばかりに現れるのが戦略系コンサルティングファームに代表されるサイエンス重視の人々です。彼らは、数値と分析によって世界は把握可能であると説き、データ分析の報告レポートと高額な請求書を孤立した経営者に対して提出します。

 かくして、無教養な経営者とサイエンス重視の参謀スタッフによる「構想なき生産性の向上」への終わりなき行軍が組織に求められ、従業員のモラルとモチベーションを破壊し、コンプライアンス違反が頻発しているというのが現在の日本の大企業の状況です。

 しかし、先述した通り「正解のコモディティ化」が進み、「役に立つ」市場における最終戦争が間近に控えている現在、サイエンスだけに頼って経営の舵取りをするオールドタイプのスタイルは完全に時代遅れになりつつあります。

 本書ではすでに「問題を設定するニュータイプ」と「問題を解消するオールドタイプ」という対比について説明しましたが、この対比はそのまま「リベラルアーツを使うニュータイプ」「サイエンスだけに依存するオールドタイプ」という対比へと接続されることになります。