一方、ロシアや中国に代表される内陸国家(ランドパワー)は農業生産への課税を主な収益とし、領土の維持と拡大のために陸軍力の増強を目指します。貴重な労働力である人民を土地に縛り付け、厳格な戸籍管理を行い、国家が経済をコントロールしようとします。貿易も国家の統制下に置かれ、御用商人が利益を独占し、しばしば恣意的な徴税が行われるために信用経済の発達が阻害されてきました。

 こうした見方に立てば、今、香港で起きていることは、ランドパワー的専制体制の中国共産党と、シーパワー的自由主義体制を維持したい香港との「文明の衝突」であることがわかります。こういった視点で東アジアを俯瞰してみたのが拙著『日本人が知るべき東アジアの地政学』です。興味のある方はぜひご一読ください。

香港、台湾、シンガポールの華僑は
自由経済を求める“シーパワー志向”

 ランドパワー国家の中国においても、国家の規制を嫌って自由な経済活動を求める人々は南方の沿海部へ移住し、「客家(ハッカ)」と呼ばれています。明代以降、彼らは国禁を犯して東南アジアや台湾へ移住し、「華僑」と呼ばれました。「客」も「僑」も「よそ者」を意味する漢字です。

 19世紀にシーパワー大国となったイギリスが東南アジアに進出して貿易拠点を建設すると、チャイニーズ・シーパワーである華僑は機敏に反応します。英領シンガポールも、英領香港も、元々は小さな漁村しかない島でした。それをイギリス資本が貿易港として整備し、利に聡(さと)い華僑が大量に押し寄せた結果、南シナ海の沿岸で1、2を争う国際貿易港となったのです。

 アヘン戦争でイギリスに奪われた香港の奪回は、中国ナショナリズムの観点からは長年の悲願でした。その一方で、イギリス統治下で自由な経済活動が保証されていたからこそ、香港の繁栄がもたらされたのであり、そこから得られる実利も無視できないものでした。中華人民共和国を樹立し、計画経済と土地の国有化というランドパワー的政策を打ち出した毛沢東に対し、イギリスは中華人民共和国の承認と引き換えに、英領香港の現状維持を認めさせました。毛沢東時代、香港は西側世界への「裏口」として機能していたのです。

 鄧小平は、香港システムを中国本土にも導入しました。「経済特区」の名のもとに、深セン、天津、上海など沿海部での外資導入と自由競争を認めたのです。この結果、中国経済は飛躍的に成長し、毛沢東時代の貧困から脱却できました。鄧小平が進めた「改革開放政策」とは、「中国本土の香港化」だったのです。

 ところが、独裁政権下での急速な経済自由化は、共産党官僚の汚職や蓄財を引き起こしました。これを批判する学生デモが起きた時、西側諸国では次のような希望的観測が広がりました。

「経済の自由化は必然的に政治の自由化をもたらす。中国共産党は独裁を緩め、徐々に民主化を認めるだろう…」