シーズンオフには、選手全員の父母との面談も大切にしているという。
「グラウンドだけでなく、家庭にもコーチがいてくれたほうがいい」
岡田監督はそう考えているからだ。
実は、これも従来の高校野球の傾向とは大きく違う。全国の強豪校の多くは、父母の介在を歓迎しない傾向が強い。しかも寮生活が多いから、家庭とは普段、ほとんど交流しない選手が大半だ。
それに対し、寮を持たない履正社は違う。一部、下宿生活の選手もいるが、大半は家庭から通学している。家庭と学校とグラウンドを日常生活に持っている高校球児の全国優勝も、意義ある未来への潮流ではないだろうか。
本来の高校野球は選手主体が基本
キャプテンシーこそ受け継ぐべき歴史
同番組に出演していたジャーナリストの木村太郎さんが、「野球をする子どもが少なくなっている。これに対する対策が本当は必要です」と指摘された。
まったくそのとおりだと思う。
社会も変化し、「組織や上司に従う人材」が求められていた時代から、「主体的に判断し、創造力のある人材が求められる」社会へと変わっている。高校野球もこの点で大きな方向転換が重要だ。
このような感想を述べると、日本高野連の田名部和裕理事が、興味深い歴史を教えてくれた。
「高校野球では監督が直接、審判の判定に疑義を質すことはできません。その理由はキャプテンシーと関係があります。第8回大会までは学校の引率責任者が一人ベンチに入っていました。いわゆる監督がベンチに入るようになったのは第9回大会からです。それまではベンチ脇にOBが来て選手を呼び出し、いちいち指示を与えていたので試合が遅延していました。
いろいろ議論があって監督をベンチに入れることにしたのですが、その時、監督をベンチに入れたらキャプテンシーがなくなるとの反対意見がありました。そのためベンチには入れるがグラウンドには出られない、必要な時は主将が対応すると決めたのです」
本来の高校野球(当時は中等学校野球)は、選手主体の試合を基本としていた。キャプテンシーという理念を高校野球が持っていたことも、田名部さんに助言されて初めて学んだ。これこそ受け継ぐべき貴重な歴史だと、心を揺さぶられた。
昨年の猛暑をきっかけに始まっている改革議論の中で、こうした本来の理念も掘り起こされたら高校野球の進むべき針路がより本質的になるのではないだろうか。
(作家・スポーツライター 小林信也)