「和敬塾」という珍しい男子学生寮がある。1955年、産業用冷凍機の国内シェアトップを走る前川製作所の創業者・前川喜作氏が都内を一望できる目白台の細川邸7000坪の土地を手に入れ、建設した。卒塾生は5000人を超え、現在も大学や出身地、国籍、宗教の異なるさまざまな学生が暮らしている。元科学技術事務次官、駐チェコ大使の石田寛人氏は、1960年(昭和35年)に和敬塾に入った。60年安保デモの思い出、多方面で活躍する和敬塾の友人たちについて語ってもらった。(清談社 村田孔明)

18歳の初夏に一度だけ
60年安保反対デモに参加

石田寛人氏現在、石田寛人氏は公立小松大学、本田財団の理事長を務める Photo by Kazutoshi Sumitomo

 石田寛人氏は1941年(昭和16年)生まれ。石川県小松市出身で、金沢大学付属高校に通っているときは小説家を夢見ていた。

「わたしの父は清水忠次郎と言います。清水次郎長と国定忠治を足したみたいな名ですが、侠客ではありません(笑)。シェイクスピアを専門とする英文学者でいつも漢詩をつくって、和とじの本にまとめていました。父の影響もあり小説家に憧れていましたが、職業として考えれば、何となく不安定なように思ったのです。それで小説家にならなくても、父と同じ文学研究者として一生を終えるのも悪くないと考えていました」(石田氏、以下同)

 ところが父親からは「文学などは世の中の役に立たない」と猛反対される。

「文学部への進学を許してくれないのなら法学部でもいいかなぁと思っていたら、それもダメだと。『文系の勉強はいつでもできるから、若いときは物理や化学をしっかり身につけておけ』と怒られました」

 1960年の春、石田氏は東京大学理科1類へ合格し、和敬塾北寮へ入る。新生活に慣れ始めた6月には、東大生の樺美智子さんが国会前の安保反対デモで圧死する事故が起きた。それまで学生運動には距離を置いていた石田氏も「ただごとではない」と感じる。

 そんな中、和敬塾の創設者・前川喜作塾長は浮き立つ学生たちを集め「信念を持ってデモに参加するなら行け、警察に捕まってももらい下げにいってやる。ただし中途半端な気持ちで行けば必ず後悔するからやめろ」と戒めた。

 塾長の言葉に後ろ髪を引かれながらも、18歳の石田氏は、自分の目でデモを見るために、樺さんが死亡した直後の安保デモに参加した。学生が石を投げ、警官が警棒でたたく。激しい応酬の続くデモに参加しても、釈然としないままだったという。

「多くの学生が真剣にデモをやっていたと思います。しかし、いま総括してみても日米安保のどこに反対なのか、どう平和を維持したかったのか、はっきりしませんよね」