「『意外と軽症だった』と、要請がキャンセルになることもありますが、ぜんぜんOKです。むしろ重症で呼ばれていない方が問題だよね、という認識を共有しています」

 地域の消防署を回り、救急隊員への講習やコミュニケーションにも力を入れている。

「センター長は、救命士さん一人ひとりの名前を全部覚えています。現場で一緒に病院前診療をやっていくなかで、『救命士さん』と呼びかけるのと、ちゃんと名前を呼ぶのとでは全然違いますよね。見習っています」(センター立ち上げ当初から共に働いてきたフライトドクター)

 地道な努力は実り、同地域の救命率は飛躍的に上昇、外傷による予測生存率50%未満というほとんど九死に一生レベルの重傷者も全国トップクラスの率で助けられるまでに進化した。

救急医療は地場産業
それぞれの地域に応じた正解がある

 小林先生には、若き日の苦い経験がある。一般病院で当直のアルバイトをしていたときのこと。瀕死のケガ人が搬送されてきた。母校の鳥取大学に救急医学講座はなく、あるのは外科の知識だけ。どうすればいいのかが分からず、何もできずにいる間に、患者は亡くなった。

「救急医学が普及している都会の病院だったら、あの患者さんの命を救うことができたかもしれない」

 衝撃を受け、迷いぬいた末に神戸・大阪行きを決意。以後20年以上にわたり、誰よりも熱く救命救急と向き合ってきた。その過程で、大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件、JR福知山線列車脱線事故、福知山花火大会爆発事故、東日本大震災など、記憶に残る数々の惨事や大災害の現場を経験。多数傷病者対応で先生の右に出る医師は、日本にはいない。

 近年一般的になってきた負傷者を重症度、緊急度などによって分類して治療や搬送の優先順位を決める「トリアージ」も、JR福知山線の事故で現場医療の陣頭指揮を執った際に、日本で初めて活用した。

 こうした数々の実績が認められ、「但馬で救命センターを立ち上げてほしい」との打診を受けた時、引き受ける条件として小林先生が示したのは「トップを任せてもらえるなら」だった。意外に感じるかもしれないが、出世願望から出た言葉ではない。

「長年の経験から、僕はどうしたらこの地域の救急医療の問題が解決できるかが分かっていました。でも、決定権があるトップでなければ、何もできない。だから、イチからではなくマイナスから全部構築して見せるからトップにさせてくれと交渉したのです」