生きているときから樹木の大部分は死んでいる
植物は動物に比べて、非常に長く生きるものがある。どうして、そんなことが可能なのだろうか。
樹木の幹の中には、おもに水を運ぶ導管や仮道管と、おもに光合成で作られた有機物を運ぶ篩管がある。これらは、細胞がたくさんつながって、管のようになったものである。
しかし、植物の細胞は、外側が頑丈な細胞壁で覆われている。そのため、ただ細胞をつなげただけでは、細胞と細胞のあいだを、水や有機物は通ることができない。
篩管の場合は、となりの細胞と接している細胞壁に、小さな穴がたくさん開いている。そこを物質が通るのである。この、穴がたくさん開いた細胞壁が、篩のように見えることから、篩管と呼ばれている。光合成で作られた有機物は、この穴を通って隣の細胞に入り、その細胞に溶け込む。それから、また穴を通って、その次の細胞に溶け込む。それを繰り返すことによって、運ばれていくのである。
ところで、ある試算によると、光合成で有機物を1グラム作るためには、根から葉に水を250グラムも運ばなければならないらしい。この値は、種によっても違うだろうが、とにかく有機物よりもはるかに多くの水を、運ばなければならないということだ。
そのため、導管や仮道管の細胞は、中身が空っぽになっている。つまり、死んでいる。
この方が、たくさんの水を運べるからだ。導管では細胞の上下に穴が開いているので、多くの細胞がつながって、一本のパイプのようになっている。仮道管では、細胞の横に穴が開いている。水は、たくさんの細胞の中を、曲がりくねりながら、進んでいくのである。
このように、樹木には死んだ細胞がかなりあるのだが、幹が太くなるにつれて、死んだ細胞がますます増えていく。幹が太くなると、中心部にある導管や仮道管では、水を通す穴がふさがる。そのため、水がしみ込みにくくなり、腐りにくくなる。
さらに、中心部全体に、タンニンなどの物質をしみ込ませて、虫や菌の繁殖を防ぐ。その後、導管や仮道管の周囲にあった生きた細胞も死んでしまい、中心部は完全に死んだ細胞だけになる。
この樹木の死んだ部分を心材といい、周囲の生きている部分(の中にも導管や仮道管のような死んだ細胞がある)を辺材という。
心材は樹木を支える役割を果たしている。死んでからも、生きている部分の役に立っているのである。
幹が太くなるにつれて、辺材はどんどん外側に移動していき、心材はますます太くなっていく。だから、樹木は切り倒されても、あまり変化しない。なぜなら、樹木は生きているときから、大部分が死んでいるからだ。
樹木は長生きといっても、生きている部分は幹の外側にどんどん移動していく。同じ部分が生き続けているわけではないのだ。そのため、何千年も生きているブリスルコーンパインでも、細胞の寿命はせいぜい30年程度らしい。そう考えると、植物が長生きなのかどうか、わからなくなってくる。
アメリカのモハーベ砂漠に生育するクレオソートブッシュという植物には、1万1700年も生きているものがいるという。それが本当なら、ブリスルコーンパインの二倍以上だ。
一つの種子から発芽したクレオソートブッシュは、周囲に枝を広げたり、根を下ろしたりしながら、同心円状に生長していく。
そうして周りに広がっていくにつれ、中心の古い幹は枯れてなくなってしまう。実際の植物体自体は1000年も経たずに枯れてしまうようだが、周囲に新しく伸ばした枝や根は生きている。そのため、長く生きているクレオソートブッシュは、中心の植物体がなくなってしまうので、ドーナツ型の茂みになっている。
これも、発芽してから連続した一個体の植物と考えてよいだろうか。
まあ、樹木だって、幹の中心部の心材は死んでいるし、腐ってなくなっている場合もある。生きているのは周囲の辺材だけだ。そう考えれば、クレオソートブッシュだって、連続した一個体として認めてあげないと不公平な気もする。
でも、クレオソートブッシュを一個体として認めると、挿し木で増やした植物はどう考えたらよいだろう。
ある木の枝を折って、その枝を土に挿す。もし、その枝が根づけば、また新しい木に生長する。こうして挿し木で増えた植物だって、元の植物の一部だったのだから、元の植物と同じ個体と考えてもよさそうだ。でも、そうすると、植物の寿命は永遠ということになってしまう。
こういうことを真面目に考えても、あまり意味はないかもしれない。ただ、はっきりいえることは、生物には素晴らしい多様性があるということだ。私たちの寿命と植物の寿命を比べること自体に、そもそも無理があるのだろう。私たちの尺度で、何でも測れるわけではないのである。
(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)