哲人 あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです。
青年 い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です! 自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?
哲人 ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。あなたは、あなただけの人生を生きています。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。そう考えてはいけない理由はありません。
青年 先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている! 究極的には「わたし」のことを考えて生きている? それでもいい、ですって? なんと卑劣な考え方だ!
哲人 ニヒリズムではありません。むしろ逆です。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
青年 どういう意味です?
哲人 承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
そして、覚えておいてください。もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
青年 違う! それはわれわれの社会を根底から覆すような議論です! いいですか、われわれは承認欲求を持っている。しかし他者から承認を受けるためには、まずは自らが他者を承認しなければならない。他者を認め、異なる価値観を認めるからこそ、自らのことも承認してもらえる。そうした相互の承認関係によって、われわれは「社会」を築き上げているのです!
先生、あなたの議論は人間を孤立へと追いやり、対立へと導く、唾棄すべき危険思想だ! 不信感と猜疑心をいたずらに搔き立てるだけの、悪魔的教唆だ!
哲人 ふふふ、あなたはおもしろいボキャブラリーをお持ちだ。声を荒げる必要はありません、一緒に考えましょう。承認が得られないと苦しい。他者からの承認、ご両親からの承認が得られなければ自信が持てない。はたしてその生は、健全だといえるのでしょうか。
たとえば、「神が見ているから、善行を積む」と考える。しかしそれは「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。われわれは、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。
青年 神のことなど、どうでもいい! もっと素直に、もっと正面から、市井に生きる人間の心を考えてください!
たとえば、社会的に認められたいという承認欲求はどうなります!? なぜ人は組織のなかで出世したいと願うのか。なぜ地位や名声を求めるのか。それは社会全体からひとかどの人物であると認められたく願う、承認欲求でしょう!
哲人 では、そこで承認を得られたとして、ほんとうに幸福だといえますか? 社会的地位を確立した人々は、幸福を実感できていますか?
青年 いや、それは……。
哲人 他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
意外に思われるかもしれませんが、カウンセリングを受けに来られる相談者に、わがままな方はほとんどいません。むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいる。いい意味で自分本位に振る舞うことができないわけです。
青年 じゃあ身勝手になれ、と?
哲人 傍若無人に振る舞うのではありません。ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。
青年 ……課題の分離? 新しい言葉ですね。聞きましょう。
(つづく)