センバツ中止が決まった後、中止を惜しむ声も数多く聞こえてくる。
大会主催者は「苦渋の決断」と言った。安倍首相がイベントなどの自粛を十日間延期してほしいと要請した直後だけに、無観客でも実施は厳しいと判断した背景がうかがえる。
私はずっと高校野球の改革を強く唱えている者だが、すでに決まったことに横槍を入れる気持ちはない。私自身も甲子園を目指した元高校球児だ。今回も、選ばれた選手たちがなんとか甲子園でプレーできないか、あれこれアイディアをひねり出し、非公式だが、高野連の関係者に提案させてもらったりもした。最後まで「開催してくれないか」との思いが心の奥にあった。
最終的な可能性としてどうかと考えたのは、「優勝を争うトーナメント方式をやめ、全チームが1試合ずつ戦う親善大会」だった。これなら近隣の高校は甲子園まで日帰りで来られる。遠いチームも1泊で済む。中止よりはいい。日本高野連の中にも同じ案を考えた理事がいたようだが、最終的にはそれも採用せず、全面中止を決めた。
本当に「選手のため」の決断か
“大人の判断”が優先したのではないか
私は、決断を感情的に非難したいわけではない。だが、ごまかしや本質外れは、指摘しなければならない。丸山昌宏大会会長(毎日新聞社社長)が「断腸の思い」「痛恨の極み」「苦渋の決断」と繰り返し言い、「選手たちが安心して甲子園でプレーできる環境を現段階では安全を担保することが難しいというのがその理由です」と苦しげな表情で言った。
だが、私の心にはその「苦しさ」が響いて来なかった。選手が感染したらいけないから中止にした、という言い方だ。が、この年代の選手は「もっとも感染しにくい、感染しても発症しにくい」と言われる。
ずるい。選手のためと言われたら、選手や監督は何も言えない。だが本当に、選手のために中止を決めたのか? もし選手のためなら、その選手のため、すぐ代替案を提示するのが当然の配慮ではないか。そのスピード感を持っていないのはなぜか? 本当に選手の気持ちを第一に考えたのか? それよりも、この状況下で、「高校野球だけが強行するのは賢明でない」という、大人の判断が優先したのではないかという印象がぬぐえない。
八田英二・日本高野連会長も同様だ。自分たちは「最後の最後まで努力を続けた」「高校野球は学校教育の一環である」とも言った。もっともらしいことを真剣な表情で言ったが、全部、大人の論理ではないか。