

アナリティクスは金科玉条の如く振りかざすものではない。コンパスのように客観的、科学的なアプローチのよりどころとして使うべきである。領域によっては、適用思想を切り替える、あるいは異なった使い方をしても良いということだ。
それを思い知らされたのも昨年の東日本大震災である。2011年3月11日。筆者はニューヨーク市庁舎の一つとして名高いTweed Courthouseの執務室にいて、内閣府にいた大学院時代の旧友からの一通のEmailで大震災を知った。
当時、CNNが映し出す自衛隊の連隊の映像を、ニューヨークの執務室で同僚たちと食い入るように見ていた。
被災し、家族の安否も確認できない困惑と悲しみの淵に立たされた被災者の方々。自衛隊連隊は、被災した彼らに温かい炊き出しを与え、不眠不休で不明者を捜索している。そんな彼ら隊員自身もまた被災者の一人であった。中には家族の安否も分からず、連絡も取れないものもいて、取材に対してやりきれない状況に唇をかみしめる隊員や、無言で冷たい缶詰を口に放り込んで、休む間もなくただそこにある命を救おうと、自らの状況を差し置いて出動し直す隊員の姿があった。
生きるか死ぬか、そういう状況において、統計データから悠長に実験計画法や静的なモデルを構築している暇はない。現場の状況を把握し、即座に打ち手を返すことが重要になることは言うまでもない。
たとえば、アメリカ原子力規制委員会の判断がそうだった。状況情報から炉心溶融の可能性をいち早く指摘しており、この仮説を元に、緊急避難体制という初動を取っていた。戦後異例のチャーター機を手配してのアメリカ国民の日本出国支援。これは、現状の被災状況から、単純な基本統計量分析(Descriptive Statistics)によって導かれたアナリティクスだった。
アナリティクスには大きく三つの分析アプローチがある。(1)要約(基本)統計量分析(Descriptive Statistics)、(2)探索的データ解析(Exploratory Analysis)、そして(3)基準変数配置型のデータ解析、別名を予測モデル(Predictive Modeling)などと呼ばれ、近年流行しつつある分野である。