天才のひらめきと確率計算

 ところで、こうした偶然の産物である「曲」は音楽的に聞く者を感動させることができるだろうか? 残念ながらそのほとんどに「天才のひらめき」を感じることはできない。この曲に用意されたすべての小節は紛れもなくモーツァルト自身が作曲したものであるにもかかわらず。

 偶然の産物の創造性・芸術性については、確率計算の初期の時代から熱い議論が交わされてきた。

 たとえば、タイプライターをデタラメに叩く猿に、限りなく多くの時間を与えてやれば、これまでに地球上で書かれたすべての文章はどんなものでもことごとく生み出すことができる。なぜなら、試行を限りなく続けていくならば、0でない確率を持つ出来事はすべて起こり得るからだ。このことは数学的に厳密に証明することができて、俗に無限の猿定理(infinite monkey theorem)と呼ばれている。

 私の娘は1~2歳の頃、PCのキーボードを無茶苦茶に叩いて、画面(メモ帳などのソフトを起動しておく)に文字が出るのを見るのが好きだった。この遊びを長くやっていると、意味をなさない文字列の中にたまたま「ok」の2文字が出てくることがある。しかしこれをもって1~2歳の娘が英語を書くことができた、と喜ぶことはできない。

 同じように、とてつもない数の猿が途方もない時間をかけて夏目漱石の『吾輩は猫である』とまったく同じ文章を書きあげたとしても、それをもって、夏目漱石の創造性・芸術性の代わりにはならない。

猿が『我輩は猫である』を書くのに必要な時間

 問題は2つある。1つは「時間」。もう1つは「選択」である。

 試しに、PCを与えられた猿が意味のある一文を打つのにどれほどの時間が必要かを検証してみよう。ふつうPCのキーボードには約100個のキーがあるので、ここでは簡単のためにどのキーも押される確率は1/100であるとする。

 また漢字変換を考えると話が複雑になるので、『吾輩は猫である』の冒頭を英文にした「I am a cat.」という一文を、無作為にキーを叩く猿が打つ確率を求めてみよう(大文字と小文字の区別は考えないことにする)。

 スペースやピリオドも含めるとこの一文には11文字あるから、この文章が打ち出される確率は(1/100)^11、すなわち100垓(がい)分の1(1垓は1兆の1億倍)だ。

 これは、(とてつもない数の猿を用意して)1秒間に計1万回キーを叩けるようにしたとしても、平均で約300億年の時間が必要であることを意味する。

 しかも、この時間は文字数が増えると飛躍的に大きくなるので『我輩は猫である』の作品全体を書き上げるためには、ビッグバン以来の宇宙の年齢(約138億年)と同じ時間を使っても、まったく足りない。

 とはいえ、信じられないほど多くの「駄文」を生み出した猿たちの「作品」の中に超一級の作品が埋もれていたとしても、それを人間の創作能力の代わりにできない一番の理由は、時間ではないと私は思う。

 万が一、現実的な時間の中で偶然歴史に残すべき傑作が生み出されたとしよう。でもその瞬間に「いい作品ができた!」と快哉を叫ぶことが猿にはできない。これが、まったく同等の作品が生まれたとしても、猿たちに夏目漱石やシェイクスピアと同じ創造性や芸術性を認めるわけにはいかない最大の理由である。

 ものを書くとは、使うべき言葉を選ぶ作業である。作家は有限の言葉の中から最もふさわしい1つを悩み苦しみながら「選択」していく。その選択の集大成が作品になるのだ。