中づりでもこんなことがありました。

 あるタレントさんの記事を掲載したとき、その事務所の社長さんが抗議に来たのです。 いわく「ウチのタレントの記事が出るそうですが、事実無根です。広告代理店に聞いたから、記事が出るのはわかっています」。しかし、これもダミーでした。

 代理店も困ったでしょうね。そのときの答えは、たまたま送られてきた文春の中づりの見本を、別の部署のこの芸能事務所の担当者が見て、事務所に伝えてしまいました。「以後、管理に気をつけます……」。平身低頭で言い訳をしておられました。

 現在も広告を介してこんな攻防が続いているかは、わかりません。少なくとも製版がデジタル化したので、新聞広告の最終版を新聞社に納める時間は随分と遅くなりました。最近は、雑誌の記事をテレビがオンエアすることで対価をもらうようになりましたから、もうテレビはおおっぴらに「文春によると」という形で、記事の中身をそのまま報道しています。

 昔もスクープが多かったのに、前述のような形で新聞・テレビの独自記事扱いされていたため、最近の文春はスクープが多いと感じてしまっている読者も多いのではないかと思います。

文春と新潮で異なる
新聞社との妥協点

 新聞広告を巡っては、もう1つ重要な戦いがあります。その新聞の批判をするときの記事の文言です。朝日新聞の従軍慰安婦報道を巡る騒動では、自紙に自分の新聞への批判が堂々と掲載されることに対し、新聞側からも随分と文言の交渉がありました。

『週刊新潮』はこういう場合、強気に出ます。「ダメなら黒塗りにしてくれ」と。確かに、なんだろうと読者に思わせる効果があります。文春は伝統的に双方の主張を入れて、妥協点を探るのが方針でした。やはり黒塗りは、あんまりきれいなものではないし、読者にもあざといと思われる、私はそう思っていました。