*前編はこちら
1番にこだわるのは
ブリヂストンのDNA
編集部(以下青文字):「真のグローバル企業」とともに、「業界において全てに『断トツ』」を経営目標に掲げていますが、全てとは、断トツとは、どのような状態を指すのですか。
津谷(以下略):断トツ経営というと、コマツの社長をされていた坂根正弘さんを思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、ブリヂストンの4代目社長の服部邦雄が1980年代によく使っていた言葉です。断トツというのは断然トップの略語で、この言葉を活字にして世に広めたのは石原慎太郎さんだそうです。
創業者は「1番が大好き」で、住所でも1番にこだわりました。創業の久留米市では洗町1番地に本社を置き、東京では京橋一丁目1番地(現 東京都中央区京橋一丁目10番1号)に土地を購入して事務所を建てました。3年前、新ビルに本社を移転しましたが、住所は京橋三丁目1番1号です。
創業者の正二郎さんは、福岡県久留米市で営んでいた仕立物業を父親から引き継いだ時から、大きな夢を持っていたようですね。
1906年、17歳の時に兄とともに、徒弟が8、9人ほどの仕立物業を継いだのですが、兄が軍隊に入ったため、経営の一切を正二郎が任されました。
種々雑多な注文に応じると効率が悪いと判断し、足袋の製造・販売に絞り込み、当時、無休で無給という慣習であった徒弟制度を改め、給料を支払い、勤務時間を短くし、月2回の休日を設けるなどの大胆な改革をしました。父への報告は実行した後だったので、ひどく叱られたそうです。
兄の除隊後は協力して新工場を建設するなど事業規模を拡大し、1923年に安全性の高いゴム底の地下足袋の販売を開始し、さらにゴム靴の製造・販売に乗り出しました。アジアをはじめ欧米などに輸出する日本有数の企業になりました。
ゴム産業への参入を果たし、ノウハウを蓄積されたわけですね。
20世紀の初めに欧米系のタイヤメーカーが日本に進出しましたが、日本人の資本と技術だけで国産タイヤを製造することは難しい時代でした。しかし、創業者は新しい産業を興したい、よいものを安い値段で提供し、自動車の発展に貢献したいという思いから、兄や社内の反対を押し切って、タイヤ事業に挑戦しました。
1930年に当社として初めて国産タイヤの開発に成功し、翌年、タイヤメーカーを設立し、ゴム靴メーカーから分離・独立しています。欧米系メーカーや欧米の技術を取り入れたタイヤメーカーが先行していましたが、戦後8年目の1953年、日本市場でトップメーカーになりました。
その後、世界トップスリー入りを目指し、2008年に世界一になったいまも「断トツ」を掲げています。
売上高、利益、品質、社会貢献、人材育成、給与、時価総額など、全てで1番を目指しています。これでいいということはありません。優良企業は常に上を目指しており、そうしないと、落ちてしまいます。
技術開発力、資金力の強みを活かし、他社が追随できない高付加価値製品に取り込んでいますが、どのようなものですか。
高性能な製品を数多く持つことで、利益もついてきます。価格の安さで勝負するタイヤの分野では、とても競争になりません。人件費などのコストが違いますから。
タイヤの接地部分の幅を狭くし、直径を大きくして、低燃費と安全性を両立させるオロジックという新技術を開発し、ドイツのBMWの電気自動車に、オロジック技術を採用したタイヤを納入しています。細くてスマートなタイヤで、燃費が向上し、環境にもやさしいというものです。
また、パンクして空気圧がゼロになっても所定のスピードで一定の距離を走れる、ランフラットテクノロジーを採用したタイヤは、スペアタイヤを不要にする理想のタイヤだと考えています。高速道路などでパンクしても安全な場所までの走行が可能になります。
スペアタイヤを積む必要がなくなることから資源の節約、車の軽量化、トランクルームの拡大、デザイン、設計の自由度向上にもつながります。
従来のランフラットテクノロジー採用タイヤは、技術的な背景や専用ホイールが必要になることから装着できる車が限られていました。しかしホイールを選ばず、さまざまな車に装着できるよう新しく開発されたランフラットテクノロジー採用タイヤは、これまで装着することができなかった車を含め、より多くのお客様にご利用いただけます。
ほかにも、疲れにくいタイヤとか、タイヤの摩耗状況が運転席でリアルタイムにわかる技術などもあります。付加価値の高い製品や技術を持たないと勝てないし、生き残ることはできません。