トヨタ自動車工業会長 石田退三
 今回は「週刊ダイヤモンド」1967年6月5日号に掲載された、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)会長の石田退三(1888年11月16日~1979年9月18日)のインタビューである。記事の冒頭、記者の独白にはこうある。

――石田会長は話し好きであり、熱弁家である。当年78歳に見えないような血色の良い顔で、しかも声が大きい。そのうちに靴を脱いで、ソファーの上にあぐらをかいてしまう。出身は地元の愛知県。発明王の豊田佐吉翁からじかに教育を受け、以来60年、トヨタ・グループの大番頭として今日の大発展に貢献した。商売人としての信念は“もうける”こと。ただ、もうけっ放しではなく、そのもうけのほとんどを製品の開発に投入してきた。ここにトヨタ発展の決め手があった――

 豊田佐吉が創業した豊田自動織機製作所に開設された自動車部が、1937年に独立して誕生したトヨタ自動車工業。実質的創業者は佐吉の長男である豊田喜一郎だ。当時の新興産業である自動車製造に果敢に参入し、事業化を達成した。

 しかし、第2次世界大戦の終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)による財政金融引き締め政策の影響などで、トヨタは資金繰りが悪化し、倒産の危機に見舞われた。銀行団による協調融資によって辛くも危機を乗り切ったが、人員整理を巡って2カ月に及ぶ労働争議が勃発。その過程で喜一郎は辞任に追い込まれた。

 代わって50年に新社長に就いたのが、豊田自動織機製作所社長だった石田である。両社の社長を兼任するかたちで、再建の任に当たった。佐吉の薫陶を直接受けた石田は、「無駄な金は一切使うな」「自分の城は自分で守れ」をモットーにケチケチ経営を貫き、現在まで続く強い財務体質の礎をつくった。

 その後、石田の社長時代にクラウン、コロナ、パブリカといった名車が誕生し、61年に会長に退いて以降は、高度経済成長の下で日本の自動車需要は急成長する。インタビューが掲載された67年は、国内の自動車保有台数が1000万台を突破し、自動車生産台数も315万台と、西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国に躍進した年でもある。

 しかし石田は「数だけ造る競争なら、世界第2位どころか、第4位でも第5位でも構わん。ビリだっていいんだ」と記事中で語っている。目指すのは数ではなく、利益だというのだ。

「まずもうける。それで実力ある車を造るための、研究費を出したい。これがワシの一生の念願であり、見えや外聞でやっているんじゃないんだ」

「トヨタ中興の祖」と呼ばれる“大番頭”の言葉は力強かった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

数ではなく、まずもうける
数だけならビリで結構

――日本の自動車工業の世界第2位が、確実となってきたようですが、トップメーカーであるトヨタ自動車の経営哲学について、お話しいただけませんか。

1967年6月5日号1967年6月5日号より

 そりゃワシだって、外国に追い付き、追い越したい。が、これを実現するものは単なる“数”の上の増産計画ではない。第一に車の性能、耐久力、安全性の点で、お客に喜んでもらえる車を造っているかどうか、ということだ。

 この実力ある車を造るには、もうけにゃならん。数だけ造る競争なら、世界第2位どころか、第4位でも第5位でも構わん。ビリだっていいんだ。

 世界第何位ということは、だから数ではなく、実質利益での勝負だ。まずもうける。それで実力ある車を造るための、研究費を出したい。これがワシの一生の念願であり、見えや外聞でやっているんじゃないんだ。

――そうなると、現在の増産競争に対しては、相当に批判的なわけですか。