今、教育の現場では、あらゆる学習において、社会に出てからの実用性を重視する実学志向が強まっている。だが、基礎知識や教養、物事を深く考える習慣を身につけさせないのであれば、先の読めない変化の激しい時代を柔軟に生きることは困難だ。『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)の著者・榎本博明氏は、学校教育の在り方に警鐘を鳴らす。今回はシリーズ3回目で、「主体的に学習に取り組む態度」の評価について問題提起する。
評価になじまない“主体的に学習に取り組む態度”
脱・知識偏重教育の一環として、主体性、つまり主体的に学ぶ姿勢については「関心・意欲・態度」によって評価することになった。その際に、どのように主体性を測るかについては多くの議論が行われてきた。
単に授業中の挙手の回数、発言の回数、ノートの取り方など表面的な評価が行われていることへの批判もみられ、文部科学省でもそのような表面的な評価に陥らないようにと注意を喚起し、「主体的に学習に取り組む態度」というように言い換えられたりしている。だが、実質的に何かが変わったとも思えない、と榎本氏は指摘する。
挙手の回数や発言回数など客観的な基準を設けたのは、評価が主観的にならないようにとの配慮によるものと思われるが、そうした表面的な基準では主体的に学習に取り組んでいるかどうかなどわかるわけがない。では、どうしたら評価できるのか。
結局のところ、「関心・意欲・態度」にしても、「主体的に学習に取り組む態度」にしても、そうしたものは評価になじまない、つまり他人が評価するようなものではないということなのではないか。そもそも学力試験の結果から切り離された「関心・意欲・態度」あるいは「主体的に学習に取り組む態度」というのは、いったい何なのだろうか。