「ツェルメロの定理」と後出しジャンケン

 もちろん将棋では実際には必勝法を計算できないから、必勝法通りにただ機械的に手を打つというのは不可能で、代わりに相手の手を読みながら手を打つことになる。そして、読めば読むほど、勝つ確率が上がる。つまり、「相手の手を読む」甲斐がある。これが将棋の醍醐味だろう。

 「ツェルメロの定理」の最も簡単な応用が、「後出しジャンケン」である。たとえば男女のジャンケンなら、「男性が手を出した後、その手を見た女性が手を出す」というルールを考えよう。

 このゲームは、先出の5条件を全て満たす。そしてもちろん、必ず女性が勝つ、と予測できるだろう。つまり、(将棋と同じように)原理的に誰が勝つかを計算できる。そしてそれだけではなく、(将棋と違って)実際にも必勝法を計算できる。後出しジャンケンでは、男性がいくら女性の手を読んだところで、負けは見えている。読んでも読まなくても負けるのは決まっている。

 というわけで、後出しジャンケンは面白くない。でもそれは、「必勝法が分かっているから」だけではない。実際にも必勝法を計算できるがそれなりに楽しいゲームもある。たとえば、「○×ゲーム」だ。

 子どもの頃、楽しんでやったことのある人は多いのではないか。これには、必勝法(もしくは必不敗法)がある。しかし、もしお互いが必勝法を知っているなら、ゲームは忽ちポイントレスとなる。子どもは楽しむが、大人同士だと楽しめない、というゲームだ。

 つまり、ゲームを楽しめるかは、必勝法があるか、というより、必勝法を知っているか、によるようだ。

 ただし、それだけでもない。たとえば普通のジャンケンを考えよう。これは必勝法がない。そして先を読もうにも、読めない。でも、これは面白いゲームだろうか。子どもは面白いと言うかもしれない。

 私も娘に、何の脈絡もなく「ジャンケンしよう」と言われたりする。しかし、大人同士で暇つぶしにジャンケンをし続ける人は、いるだろうか。かなり奇特な人を除いて、いないのではないだろうか。

 ジャンケンが面白くないのは、やはり「相手の手を読む甲斐」がないからだ。まあ、読んでみてもいいのだが、相手は各手を三分の一ずつ出すのが関の山なので、こちらとしては結局何を出してもいいわけである。

 子どもの場合は、相手の手を読もうとして、しかも読めば読むほど勝つ確率が上がる、つまり「読む甲斐がある」、と思っているのかもしれない。だから、ジャンケンが面白いのだろう。

 ちなみに、大人から見ても、子どもとジャンケンをするのは、面白い。子どもは特に行動にパターンがあるので、これを見つけ出し勝つ確率を上げることができる。つまり、「読む甲斐」があるから、面白いのである。

他人の行動を読むということ

 こう考えてみると、「読む甲斐があるかどうか」がゲームの面白さを決めているようである。たとえば人生ゲームやモノポリーなどのボードゲームでは、相手に先を越されないように物件を買ったりする、など、様々な局面で選択を迫られる。うまく相手の行動を読んだ者が勝ち残る。ポーカーやブラックジャックなどのカードゲームもそうだ。

 人生ゲームの話をしたが、「本当の人生」の方でも、他人の行動を読むということは重要である。相手の立場に立って、相手の行動を正しく読むことで、人生をうまく過ごしていける。相手の行動を読む甲斐がある。つまり、人生をゲームだと思うと、これは「面白いゲーム」に属する。

 そうやって社会でどのように人々が相手の行動を読んで、行動するか。これを解明するのがゲーム理論だ。

 これは私が将棋が弱い言い訳だが、ゲーム理論家の中で、ボードゲームの分析をしている人はほとんどいない。ゲーム理論を使って社会経済問題を分析するゲーム理論家が、ほとんどだ。

 「人生」、「社会経済問題」と大きく出たが、最後は将棋で話を締めくくろう。

 先ほど「必勝法が世界中に知れ渡ったら、プロ棋士はいなくなるかもしれない。必勝法を頭に叩き込めば私でさえ、藤井七段に勝てるようになってしまうのだから」と書いたが、本当にそうだろうか。もし私が必勝法を本当に頭に叩き込めれば、藤井七段にも勝てるだろうが、あいにく私の頭脳はそこまで優れていない。

 これは謙遜ではなく、どんな人間の頭脳もそこまで優れていないだろう。「必勝法」とは、相手がいかにもプロ棋士が指しそうな手を指した場合にどう打ち返すかのみを記述するものではなく、どんな手に対してもどう対応するかを記述するものだからだ。

 この記述量は膨大で、それこそ巨大なコンピュータの力が必要である。だから、もし必勝法が世界中に知れ渡ったとしても、プロ棋士がいなくなったりはしないのではないか。これは、将棋の弱いゲーム理論家の、勝手な推論だが。