江戸幕府の支配機構(職制)がしっかり整備されたのは、三代将軍家光の時代である。重職は譜代と旗本で占められ、外様や親藩(徳川一族)は政治に参加させなかった。将軍のもとで政務にあたるのが、二万五千石以上の譜代から任命された老中だ。定員はおおむね三~五名。ただ、政務は月番制(一カ月交替制)だった。これは老中だけでなく、重要な役職はみな同様。しかも大事な要件は、話し合って決めていた。

 こうした合議制の採用は、独裁を防ぐためであった。これまで見てきたように、日本の政治は古代から衆議によって決定してきたのである。もちろん、独裁が行なわれた時期も存在するが、それはいずれも長続きしなかった。

日本では「独裁政治」は長続きしない

 内閣総理大臣は九十七代を数えるが、一年間も首相の座にいなかった人がおよそ三分の一を占める。ここまで為政者がコロコロと変わる国は少ないと思う。

 これは内閣制度に限らない。歴史をさかのぼっても同じ事が言えるのだ。政権交代の頻繁さは、ある意味、日本特有のものではないかとさえ思えてくる。とくに強権を発動して慣例を大きく変えようとする為政者に対しては、必ずといってよいほど反乱が起こったり、当人が死去してすぐ政変が勃発している。

 たとえば、織田信長は、明智光秀に殺害された理由は不明だが、荒木村重、松永久秀、浅井長政、武田信玄など、これまで多くの家臣や大名に背かれている。彼の強引で人間を理解しようとしない性格が災いしてのことだと思われる。

 幕府の老中・水野忠邦は、将軍家斉の文化・文政期に弛緩した政治状況を正そうと、天保の改革を断行した。その理念は見上げたものだったが、あまりに性急で厳しかったこともあり、わずか二年で大名や旗本に反発を受けて失脚してしまった。