“学校ズル休み”で開いた「扉」

 そして、高校3年生のときに、僕の前で「扉」が開くことになる。

 ある日、新聞を読んでいるときに、「第一回国際コンピュータアート展」というものが東京で開催されることを知った僕は、「コンピュータをアートに使うなんて面白そうだ。これはぜひ見に行きたい」と思った。

 僕は、アートも大好きだった。音楽も大好きだったし、絵を描いたり、父親の一眼レフで写真を撮りまくったり、シルクスクリーン印刷にはまったり、当時は珍しかったビデオテープ・レコーダーという機械で映画のようなものを自分で作ったりしていた。そんな僕にとって、「コンピュータをアートに使う」という発想は、あまりにも魅力的だった。

 ただ、開催日は平日だった。

 僕が住んでいたのは神戸だったから、東京は遠い。

 親に相談すれば、「学校があるだろ? ダメだ」と言われるに決まっている。だから、僕は、「今日は帰りがちょっと遅くなるかもしれない」と言って、いつもより早めに家を出て、通学路になっている神戸三宮駅から伊丹空港行きのバスに乗り換えた。今日は学校を休んで、一人で東京まで行くと決めたのだ。

 学校をズル休みして東京に行くというのは、高校生としてはちょっとした冒険だ。僕が通っていた甲陽学院高校が私服だったのはひとつの救いだった。学校へは空港から電話をかけた。「今日は休みます」とだけ言った。ズル休みではあるが、嘘をつくのはイヤだった。スカイメイト割引を利用して、運良く空席があった始発便で東京へ向かった。運賃は正規の半額。小遣いでなんとかなる金額だった。

 早起きで寝不足だった僕は、機内ではぐーぐー寝た。

 起きたら羽田空港だった。羽田からモノレールと山手線を利用して有楽町に向かい、有楽町から歩いて、会場だった「銀座ソニービル」へ行った。

 会場には熱気があった。僕は、大きなコンピュータと、コンピュータで作られたアート作品がたくさん並ぶ会場をつぶさに見て回った。音響作品、平面作品、立体作品……。そのどれもが素晴らしく、「これこそが僕がやりたいことだ」と感じて興奮した。何度も展示を往復しながら長時間にわたって展示作品を観ているのが気になったのだろう。事務局の人に声をかけられた。主催者の出版社、コンピュータ・エージ社の人だった。

 学校をズル休みして、神戸から飛んできたこと。コンピュータとアートが大好きで、展示物に感動したこと。これからやりたいこと。僕は聞かれるがままに、思いの丈を話していた。そんな僕を面白がってくれたのだろう、会場にいたコンピュータを表現手段として使おうという出展者をはじめとする人たちを何人も紹介してくれた。

 これが、僕の未来の「扉」を開いたと言ってもいいだろう。

 このとき紹介された人々とは、その後も連絡を取り合い、その後、僕が東京に出てきたときに、一緒に会社を作るなど行動をともにすることになったからだ。コンピュータ・エージ社からは、コンピュータ・ライターとしてアルバイト仕事をたくさん回してもらい、これが後に、『月刊アスキー』を創刊する伏線ともなった。