「興味のある場所」に行くだけで、
人生は自然に拓ける
特に印象深かったのが、音楽家の端山貢朗先生だ。
「国際コンピュータアート展」の主催者のひとりで、コンセプト・リーダーのような存在だった。たいへん優しくしていただいたが、そのお話には大きな感銘を受けた。
僕が思い描いていた「コンピュータが無線で繋がり、お互いにコミュニケーションをとる未来社会」というイメージを、より具体的に、より鮮明にするようなお話だった。僕は、その後、『月刊アスキー』創刊号の巻頭言に「コンピュータはメディアになる」と書いたが、あのときの僕は、端山さんのお話にインスピレーションを受けて一気に書き上げたのだった。
僕は、この頃から、興味のある場所には躊躇なく飛び込んでいった。
それは、今に至るまで全く変わらない。自然と体が動いてしまう。僕にとっては、それが当たり前のことだった。そういう性分だと言えばそれまでの話かもしれないが、この性分が僕の人生に創造性を与えてくれたのだと思う。なぜなら、最も重要な情報は、「人」を介してもたらされるからだ。
これは、高度な情報化社会になった現代でも変わらない。グラハム・ベルが電話を発明したときに、最初に電話で話した言葉が「ワトソン君、ちょっと来てくれ」だったのは有名な話だが、メールやチャット、テレビ電話が使われる現代でも何も変わっていない。人と直接出会って対話する以上のコミュニケーションは、この世に存在しないのだ。
であれば、自分の人生を生きるために大切なのは、興味のある場所に行ってみることであるはずだ。その場所には、同好の士が集まっている。同好の士なのだから、心配しなくても話は合う。感銘も受ける。興味はさらに深まる。そして、彼らと交流することで、自分にとって重要な仕事や情報は、ほとんど自動的にもたらされる。それさえ手に入れば、人生は自然と拓けていくのだ。
実際、その後、僕は、アメリカの雑誌で見かけたマイクロソフトという会社に興味を持ち、いきなりビル・ゲイツに「直電」して、アメリカまで会いにいったり、面白い技術を開発している会社があれば、すぐに連絡を入れて足を運んだ。そして、さまざまな人物や技術やアイデアと出会って、どんどんと僕の人生は加速していったのだ。
だから、僕は「やりたいことが見つからない」とか、「自分の人生を変えたい」と悩む若者を見ると、いつもこう思う。興味のある場所に行ってみればいいよ。人生はシンプルなんだから、悩んでる時間がもったいないよ、と。
ともあれ、学校をズル休みして参加した「第一回国際コンピュータアート展」は、僕に強烈なインパクトを与えた。後髪を引かれる思いで会場を後にするときに、事務局の人が声をかけてくれて、「来年もやるから、その時も遊びにおいで」と言ってくれたのも嬉しかった。
ギリギリ間に合って搭乗した羽田発の最終便の中でも、かなり興奮していたと思う。このとき機中で、卒業したら「東京に行こう」と思った。僕は、大学の第一志望はずっと京都大学か大阪大学で、関西から出ようと考えたことは一度もなかったが、自分の「夢」を実現するには、東京に行くしかないと本能的に思った。そして、第一志望を東京大学理科一類へと変えたのだ。
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo