文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。自民党元幹事長の野中広務先生との親子2代にわたる不思議な縁をお話しします。(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)

自民党・公明党の同盟秘話
始まりは京都の野中広務氏だった

野中広務大物政治家・野中広務氏と元文春編集長との不思議な縁とは Photo:Koichi Kamoshida/gettyimages

 自民党元幹事長・野中広務先生とは、昔からの縁があります。

 私の父親は京都市議でした。当時の京都は蜷川虎三というカリスマ知事が人民戦線政府(社会党と共産党が与党の革新派政権)で、その反対派・自民党の市議が父の木俣秋水、そして府議会の反蜷川の急先鋒が野中先生でした。

 私の父は明治45年生まれ。野中先生は大正14年生まれですから、かなり年齢の差はありましたが、革新であろうと保守であろうと、権力を持つ側は反対派を弾圧するものです。父親はポスターのサイズまで、決められたものより1センチ小さくするほど気を遣っていました。

 その木俣父・野中コンビが仕掛けた「打倒蜷川政権」の秘策が、自民党・公明党の同盟。

 学生の町・京都では、革新派の政治運動は民青をはじめ、若者が担うのに対して、自民党には若手の支持者が圧倒的に少なく、公明党の参加による若手の選挙運動投入は大きな成果をあげました。

 後に中央で自民党と公明党の同盟を結んだのは野中広務先生でしたから、京都での体験を生かしたものだと思います。